第55話:待て。私の故郷、未来に無くない?
だから勉強しといたほうがよかったのかもよ?8点ちゃん?
『婚姻無効にできる』
法的な理由はある。教会法上、問題になり得る血縁関係も確認できた。
もちろん、王と王妃の婚姻だ。教皇庁まで絡む以上、
退職届一枚を人事に叩きつけて即日退社、なんて簡単な話ではない。
それでも出口はある。
この冷え切った、呼吸の苦しいシテ島の王宮から抜け出す道が、目の前に見え始めていた。
……でも。
夜更け。
蝋燭の灯りが揺れる机の上で、私は書類の束から顔を上げた。
「…………」
ふいに、手が止まった。
”本当に出ていいのか”
胸の奥へ、冷たい鉛の塊みたいなものが、どすんと落ちた。
私はもう、この世界へ転生してきたばかりの、何も分からない子供じゃない。
アキテーヌの陽射しの下で育った。
馬を走らせた。
父を看取った。
領民の声を聞いた。
フランス王妃になって、戦争に巻き込まれて、
十字軍で泥と血と煙の中を歩いて、それでも生きて帰ってきた。
そして今は、マリーの母親でもある。
私がここで、
『もう辞めます』
と席を立ったら。
それは、私ひとりの人生の清算では済まない。
アキテーヌはどうなる。
マリーはどうなる。
フランスは。
南の諸侯は。
そもそも。
「……この国、この先も普通に続いてたよね?」
誰もいない部屋で、思わず口に出した。
フランス
知っている
前世にもあった
パリも知っている
エッフェル塔があって、凱旋門があって、ルーヴルがあって
つまり少なくとも…
フランスという国は、このあと何百年も何百年も、何だかんだ続いている。
「……だよね?」
問題は。
私だ。
私は、本当にここで離婚していい人間なのか。
”アリエノール・ダキテーヌ”という女は、本来このあとどうする人なのか。
ここで私が婚姻無効を押し切ったせいで、何かとんでもないものを壊したりしないのか。
「…………私、余計なことしてないよね?」
背中を、冷たい汗がすうっと流れた。
十字軍へ行く前にも、似たようなことを考えた。
自分が正しい道を進んでいるのか分からない。
未来の年表も攻略本もない。
その怖さは、もう知っている。
でも
今感じているものは、少し違った。
未来を知らないことが怖いんじゃない。
『私が今ここで選ぶことが、そのままこの世界の未来になってしまう』
そのことが、怖かった。
「…………」
何気なく前世の記憶を引っ張り出した。
テレビのニュース
世界地図
旅行会社のパンフレット
学校の地図帳
フランス
ある
イギリス
ある
スペイン。ウィーン。イタリア。
全部ある。
「……あれ?」
私はペンを握ったまま、固まった。
もう一度
頭の中に、現代ヨーロッパの地図を思い浮かべる。
フランスの六角形。
その南西。
大西洋
ピレネー
ボルドー
「…………ボルドー?」
ボルドー
ワイン
赤いやつ
前世のスーパーでも普通に売っていた。
ボルドーワイン。
あれ、フランス産じゃなかったっけ。
「…………」
嫌な予感がした。
「アキテーヌって……未来に、国として残ってたっけ……?」
頭の中の世界地図を、必死に探す。
アキテーヌ王国
ない
アキテーヌ共和国
ない
アキテーヌ合衆国
そんなもの聞いたこともない。
「…………ないじゃん」
声が震えた。
少なくとも私が知っている未来の世界地図に、
『アキテーヌ』
という独立した国は存在しない。
「待って」
心臓が、急に速くなる。
「待って待って待って」
椅子から立ち上がった。
いつ?
どうして?
何があった?
世界史八点の脳みそを全力で回す。
フランスは残っている。
イギリスも残っている。
でも。
父が、祖父が、
何代もの人間が受け継いできた、この広大なアキテーヌは。
未来では少なくとも、ひとつの国として地図に載っていない。
「……何で?」
部屋の中をぐるぐる歩き始める。
「私がここで離婚したせいで、将来フランスに攻め込まれて無くなるの!?」
いや待て。
「逆に、このままフランス王妃で居座ったら、カペー家にそのまま吸収されるの!?」
それも分からない。
「ていうか“無くなる”って何!?」
戦争?
併合?
相続?
婚姻?
分裂?
「何で消えるのぉぉぉぉぉ!!」
当然。
答えてくれる人間はいない。
世界史八点の私に分かるのは、ただ一つ。
”未来の世界地図に、アキテーヌという国がない”
それだけ。
いつ
誰が
どうして
そんなものは何ひとつ分からない。
「…………」
私は机へ戻り、椅子に座った。
目の前には、アキテーヌから届いた書類がある。
見慣れた紋章。
それを見ていると、胸が痛くなった。
アキテーヌはもう、ただの領地ではない。
私が泥だらけになって育った故郷だ。
陽射し。
葡萄畑。
城壁の向こうに広がる町。
耳に馴染んだ南の言葉。
私を女公と呼んで笑った人々。
祖父がいた。
父がいた。
母がいた。
全部あそこにある。
私はずっと。
あの土地だけは守ると決めてきた。
自分の人生がどうなるか分からないことより
自分の大切な故郷が、この先どうなるのか分からないことの方が。
ずっと怖かった。
「…………知らん!!」
私は両手で机を叩いた。
羊皮紙が跳ねる。
「知らん知らん知らん!! 背負わせる責任が重すぎるだろ馬鹿野郎ぉぉぉぉ!!」
ただの元OLだぞ。
理不尽な夫と、とんでもない海外出張と、炎上プロジェクトに耐えかねて、
『もう実家帰りたいです』
って言ってるだけの一般人だぞ。
なんで離婚一つするのに。
数百年後の国境まで考えなきゃならないんだよ。
「知らねーよ!!」
私は頭を抱えた。
「世界地図の責任まで私に持たせんな!!」
静まり返った部屋に、私の声だけが響いた。
しばらくして
私はもう一度、机の上の系図を見る。
婚姻無効にできるかもしれない。
でもここで踏み出す一歩が
いつか、アキテーヌという名前を地図から消す原因になるのかもしれない。
あるいは。
私が何をしても、アキテーヌは別の形で未来へ続いていくのかもしれない。
そもそも
今の私が知っている『国がない』という事実と、
『故郷そのものが無くなる』ことは、
同じではないのかもしれない。
分からない。
何も。
「…………怖っ」
ぽつりと呟いた。
退職届――もとい、婚姻無効へ向かうための書類を握った手が、小さく震えていた。
怒りではなかった。
ルイへの恨みでもない。
ただ自分の選択が
自分ひとりではなく、娘や故郷や、その先の未来にまで続いていく。
その重さが。
今さらになって、どうしようもなく怖かった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




