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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第54話:帰ってきても会社は終わっている

離婚まっしぐら(。-`ω-)

数々の伝説――主に現場猫的な大惨事――を打ち立てた第2回十字軍は、

こうして盛大な失敗として幕を閉じた。


……と、軽く言ってしまえばそれまでだ。


でも。

帰りの船に乗った時、

港で人数を数えた時、

途中の街で隊列を見渡した時…

私は何度も、言葉を失った。


”行きにはいた人が、いない”


名前を知っていた騎士。

顔を覚えていた従者。

何度かパンを分けてもらった兵士。

小アジアで置いてきた巡礼者たち。

カドモス山で消えた人。

アッタリアから先へ進めなかった人。

病で倒れた人。

戦場で帰ってこなかった人。


誰がどこで死んだのか、最後まで分からないままの人もいた。

数えようと思えば、きっと数えられたのだろう。

でも私は、途中から数えるのをやめた。


減った人数を数字にしたところで、その一人一人が戻ってくるわけではない。


だから。


『第2回十字軍は失敗だった』


作戦的にも。

政治的にも。


そして何より…

帰ってこなかった人が、あまりにも多かった。


そんな遠征を終えて

船を乗り継ぎ、陸路を辿り、ようやく戻ってきた懐かしきパリ。


”シテ島の王宮”


外から見れば、それは「神の試練を乗り越え、無事に聖地から帰還された国王夫妻」の、

麗しき凱旋劇に見えたことだろう。


でも。

私には、とてもそんな気分にはなれなかった。


門の前で歓声が上がるたび。


「おかえりなさい」と頭を下げられるたび。


帰ってこられなかった人たちの顔が、ちらついた。


それでも王宮の重い扉が閉じた瞬間

現実は容赦なく、私を日常へ引き戻した。


中身は完全に「事業部解散後の残務処理室」だった。


「マリー!」


中庭へ駆け出した瞬間

私の顔から、ここ何か月も貼りついていた冷たい仮面が、一気に剥がれ落ちた。


侍女に手を引かれてこちらへ走ってくる、小さな娘。

少し見ない間に、ずいぶん大きくなっている。


「ただいまー!!」


私はその場にしゃがみ込むと、勢いよくマリーを抱きしめた。


「あああぁぁぁ大きくなったねえええ!! ママだよー! 生きて帰ってきたよー!!」


ふんわりと甘い、石鹸と子供特有の温かい匂いがした。


砂埃。馬の汗。

血。煙。

ここ数か月、そんなものばかり嗅いできた元OLの涙腺には刺激が強すぎる。


本気で泣きそうになった。


「お土産あるよ!」


私は侍女へ合図した。


「コンスタンティノープルで買った絹のリボン! 

あと甘い木の実! すっごい綺麗だからね!」


「おかあさま、きれい!」


「でしょー!?」


マリーが笑う。

私も笑う。


これだ。

これを見るために、私は帰ってきた。


そう思った。


同時に帰ってこられなかった人たちにも、

”きっとこんなふうに待っていた家族がいたんだろうな”

と。

ほんの一瞬だけ胸の奥が痛んだ。


その時。

すぐ横に、灰色の影が差した。


「……アリエノール」


ルイだった。

私の声の温度が、一瞬で零下三十度まで落ちる。


「何」


「夕食は、共に……」


「別で」


「……明日の、神への感謝のミサですが」


「侍従に伝えて。時間通り出るから」


「…………」


マリーが、父と母の顔を交互に見上げた。

幼い彼女には、何が起きているのかまでは分からない。


ただ。

少しだけ困ったように、私のドレスを掴んだ。


胸が痛んだ。


「大丈夫だよ」


小さく笑って、その頭を撫でる。

でも、ルイとは目を合わせなかった。


同じ王宮。

同じ王と王妃。

同じ子供の父と母。


それなのに中身はもう。


『業務上必要な連絡だけを共通チャンネルで最低限やり取りする、完全に別部署の人間』


そんなものだった。


その日の夜。

旅の埃を落とした私は、信頼できるアキテーヌ出身の書記官を部屋へ呼んだ。


ついでに侍女にも残ってもらう。

扉が閉まったのを確認してから、私は机に肘をついた。


「ねえ」


二人がこちらを見る。


「婚姻無効って、誰に聞けばいいの?」


侍女が盛大にむせた。

書記官は「ひっ」と妙な声を出し、慌てて扉を振り返った。


「お、王妃様!?」


「声でかい」


「しかし!」


「いいから教えて」


私は身を乗り出した。


「教会法に詳しい人ってどこ? 司教? 大司教? それともローマ?」


書記官はしばらく口をぱくぱくさせたあと、観念したように答えた。


「王族の婚姻ともなれば……最終的には教皇庁が関わることになるかと」


「ローマまで案件!?」


思わず頭を抱えた。


「めんどくさ!!!!」


退職届一枚、人事に出して終わりじゃないのか中世!


なんで離婚するのに本社のさらに本社まで稟議通さなきゃいけないんだよ!


私はぶつぶつ文句を言いながら、書記官が持ってきた系図を覗き込んだ。


複雑だった。非常に。


誰が誰の従兄弟で

どこで家系が交差して

誰が誰の祖先で


「……こういうの、最初から図にしてくれない?」


「図、ですか」


「組織図みたいなやつ」


「……?」


「何でもない」


世界史8点なりに、私は指で一本ずつ血縁を辿った。

そして、あるところで止まる。


「……あれ?」


「はい」


「私とルイって」


もう一度見る。


「思ってたより血縁近くない?」


書記官は慎重に頷いた。


「はい。教会法上、問題になり得る近親関係ではあります」


私は顔を上げた。


「……これ、婚姻無効の理由になる?」


少し間があった。


「なり得ます」


「なり得る」


「はい。ただし」


出た。嫌な接続詞。


「ただし?」


「王と王妃の婚姻です。しかも、この婚姻については教皇ご自身が以前、

継続を認め、和解を勧められています」


「…………」


私は瞬きをした。


「え」


「ですので、単純に『血縁でした、はい無効です』とは……」


「ならない?」


「簡単には」


私は天井を仰いだ。


「めんどくさあああああ!!!!」


やっぱり一発退職じゃねえ!!


法的根拠はある。

でも、その上に宗教と政治と王家の都合と教皇庁の判断が山盛りで乗っている。


前世の会社で例えるなら…


雇用契約書に問題はある。

労基へ相談する余地もある。

でも社長と親会社と顧問弁護士と本社人事が全部絡んでくる。


最悪だ。


「でも」


私はもう一度、系図へ視線を落とした。


少なくとも、”手がないわけではない”。


アンティオキアで喧嘩の勢いに任せて叫んだ、


『婚姻無効にできるんじゃないの!?』


あの言葉、完全なハッタリではなかった。


「……ガチ案件ではあるんだ」


「可能性は、あります」


思わず乾いた笑いが漏れた。


帰ってきたら調べようと思っていた。

だから、調べた。


感情ではなく。

怒りでもなく。

事実として。


そして。

思っていたより、ずっとこの結婚には、出口がありそうだった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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