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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第52話:もう、話さなくていい

まぁ、うん。そうなるよねぇ

エルサレムへ向かう南下の道中、馬車の中は完全な氷河期だった。

アンティオキアを強制的に連れ出されたあの夜、私は喉が枯れるまで叫び散らした。

けれど、一晩が明け、二日が過ぎ、三日目を迎える頃には――怒鳴る気力そのものがなくなっていた。


馬車の窓の外から、馬を寄せてきたルイが遠慮がちに声をかけてくる。


「……アリエノール」


「……何」


膝の上の羊皮紙から目を上げずに返す。


「少し日が高くなってきました。木陰で休みませんか」


「好きにすれば」


「……」


かつてなら、


「休むなら水場確認してからにしろ現場猫!!」


くらいは言っていたと思う。

でも今は、そんな元気もない。


怒鳴らない。

皮肉も言わない。

必要最低限の返事しかしない。


「食事は?」


「済ませた」


「体調は」


「問題ない」


「…………」


蹄の音だけが、乾いた街道に続いていく。

やがて、ルイが小さな声で聞いた。


「……私に、怒っていますか」


「別に」


出た。

自分で言っておいて何だが、完全に終わりの二文字だった。


前世でもそうだった。

理不尽な上司に「それおかしくないですか」と噛みついている間は、まだ改善を期待している。

でも退職届を出して、机の私物まで片づけ終わった人間は違う。


「はい」


「承知しました」


「お好きにどうぞ」


それで終わりだ。

今の私は、完全に”引き継ぎ期間中の退職者”だった。


しばらくして。

隊列の前方から、ざわめきが広がった。


荒れた丘の向こう。

陽光を受けた城壁が見える。


「……エルサレムだ」


誰かが呟いた。

次の瞬間、あちこちから歓声とすすり泣きが上がった。


「聖地だ……!」


「主の都だ……!」


ルイは馬から降りると、その場に膝をついた。

そして泣いた。

本当に、子供みたいに泣いた。


「主よ……感謝いたします……!」


周囲の騎士や聖職者たちも次々に祈り始める。

私は馬車から降り、遠くの城壁を眺めた。


(……おお)


さすがに少しだけ感動した。


(世界史八点の私でも知ってるやつだ)


『エルサレム』


教科書で見た。

ニュースでも聞いた。

人生で一度も行くと思っていなかった場所が、今、目の前にある。


すごい。

たしかにすごい。


ただ、隣で号泣している夫を見ても。


「よかったねえ」


くらいしか出てこなかった。


ここへ来るまでに、どれだけ人が死んだのか。

どれだけ置いてきたのか。

どれだけ揉めたのか。


全部知っているせいで、純粋に感動するには疲れすぎていた。


(まあ……目的地には着いたんだし)


よかったね。

本当に。


私はぼんやりそう思いながら、泣き崩れるルイから視線を外した。


その後。

聖地でしばらく過ごしたのち、十字軍の指導者たちはアッコンへ集まった。


フランス王ルイ。

ドイツ王コンラート三世。

エルサレム王国の諸侯。

その他、大勢の偉い人。


そして。

私は広間の後ろの方で、壁にもたれていた。


以前なら地図の前へ飛び出して、勝手に口を挟んでいたと思う。


でも今は……

知らん。もう好きにしてくれ。


議論は長々と続いた。

やがて、次の標的が決まった。


「――ダマスカスを攻める」


私は顔を上げた。


「……ダマスカス?」


聞き間違いかと思った。


「はい」


「エデッサは?」


沈黙。


「アレッポは?」


また沈黙。

私はゆっくり瞬きをした。


『ダマスカス』


以前はエルサレム王国と協調することもあった都市。


もちろん情勢が変わっていることくらいは、私にも分かる。

でも。


「……なんで?」


誰にともなく聞いた。


誰かが長い説明を始めた。


政治。

同盟。

敵対勢力。

今後の勢力図。


いろいろあるらしい。

私は途中で聞くのをやめた。


「……もういいや」


広間が少し静かになった。

何人かが、妙に不安そうな顔でこちらを見る。

ルイまで振り返った。


何その顔。

前なら私が机を叩いて、


「はぁぁぁぁ!? 何でそうなるの!?」


と騒いでいたからか。


期待すんな。

今日はやらない。


「好きにすれば」


それだけ言った。

誰かが咳払いをした。

会議はそのまま続いていく。

私は壁にもたれたまま天井を眺めた。


(知らん)


本当にもう知らん。

勝てると思うなら行けばいい。

失敗したら、その時考えればいい。


私はもう、全部に口を出して怒鳴る係を辞めた。

アンティオキアを出る前までは、

まだ腹が立っていた。

だから怒鳴った。

説明した。

分かってもらおうとした。


”でももういい”


話したって通じない。

だったら、話さなくていい。


私は大きく息を吐いた。


(帰ろ)


この遠征が終わったら、フランスへ帰る。

それから。


(この会社、辞めよう)


……違う。


会社じゃない、この結婚だ。

帰ったら、婚姻無効の手続きについて調べよう。


誰に聞けばいいんだ。


司祭?司教?教会法務担当?

そんな部署あるのか?


「……チャッピーがいればなあ」


思わず小さく呟いた。

隣にいた騎士が、怪訝そうにこちらを見る。


「今、何か?」


「何でもない」


私は首を振った。


そして心の中で、静かに決めた。


今度こそ。

勢いでも。

喧嘩の売り言葉でもない。


ちゃんとこの結婚を、”辞めよう”。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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