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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第5話:三歳児に領地経営を教える

お父さんは苦労人

衝撃の「家族関係の治安どうなってんだ事件」から数日。

私の胃は、二歳児の小さな身体の中で、いまだにしくしく痛んでいる気がした。


あの豪快すぎる祖父――ギョーム九世は、二日酔いから復活するやいなや馬に乗り、

どこかの街へ詩を詠みに行った。

あるいは女を口説きに行った。


どっちかは知らない。

たぶん両方だ。


嵐のようなジジイである。

そして、そんな祖父がいなくなった館で、私を抱き上げたのは父親のギョーム十世だった。


……あれ?


改めて見ると。

お父さん、めちゃくちゃ普通じゃない?


祖父みたいな、白髪交じりのライオンのたてがみもない。

服装も上等ではあるけれど、落ち着いた色合いだ。


声も大きくない。

酒臭くもない。

女の話もしない。


何より。

眉間にうっすら刻まれた縦皺が、前世の会社にいた中間管理職のそれと完全に一致している。


前世の課長にちょっと似ている気さえする。


「アリエノール。体調はもう良いのか」


「あい」


声も静かで、とても落ち着いている。


よかった。

この家、全員が暴走族の総長じゃなかったんだ。


安心したのも束の間。

父は私を抱いたまま、館の高い場所へ連れていった。


眼下には、先日見た街並み。

その向こうには平野が広がり、森があり、川が流れている。

さらに遠くには、畑らしきものまで見えた。


先日の祖父なら、ここで間違いなく叫んでいたはずだ。


『見ろ、アリエノール! これが我がアキテーヌだ! 

豊かだ! 広い! 酒もうまい! 女も美しい! ガーッハッハ!』


たぶん……

いや。絶対言う。


でも父の口から出てきたのは、まったく別の言葉だった。


「アリエノール。よく見なさい」


「あい」


父は遠くを見ながら、静かに続けた。


「葡萄畑がどれほど豊作でも、運ぶ道が悪ければ葡萄酒は街へ届かん」


「……」


「道がぬかるめば荷車は動かぬ。橋が落ちれば商人は来なくなる」


ほう。


「商人が来なければ、塩も鉄も入ってこぬ。塩がなければ冬を越す肉の保存にも困る」


私は父の横顔を見上げた。


声は淡々としている。

だが、話している内容は妙に具体的だった。


「城壁を直すにも、兵を養うにも金が要る。金を得るには税が要る」


「ぜい」


「そうだ」


父は頷いた。


「だが、取りすぎれば民が困る。民が困れば畑が荒れる。

畑が荒れれば、翌年は税を取るどころではなくなる」


なるほど。


「それから教会とも、必要以上に揉めてはならん」


父はそこで、ほんの少しだけ遠い目をした。


「……父上のようにな」


あのジジイか。


「破門だ何だと騒ぎになれば、婚姻も領地の取り決めも面倒になる」


そこまで言ったところで。

私は父の腕の中で、真顔になった。


いや待て。


これ三歳児にする話か?

教育熱心とかいうレベルじゃない。


アンパンマン見てる年齢の幼児に、日経新聞を音読して聞かせてるようなもんだぞ。


しかし。

困ったことに、私の中身は二十八歳である。


世界史は八点だった。


でも会社員として働いていれば、見積もりだの納期だの、

物が届かなくて予定が狂うだの、金が足りなくて話が止まるだの。


そういう話くらいは嫌でも耳に入る。


だから。

なんとなく分かってしまう。


あ。

これ、物流とインフラと税金の話だ。


土地がいくら豊かでも、運べなきゃ意味がない。

税金を取りすぎれば、回り回って自分の首を絞める。


戦うにも金がいる。

物を動かすにも人がいる。

何をするにも、仕組みが必要。


父ちゃん。

めちゃくちゃ現実派だ。


祖父の破天荒なカリスマだけで回っているのかと思っていたアキテーヌ公国。


でも実際は。


こういう地味で面倒なことを考えて、誰かが毎日調整している。


たぶんその誰かがこの人なんだ。


私は父を見上げた。


なるほど。

お父さんの胃が痛そうな理由が、ちょっと分かった気がする。


現代知識で内政改革?

未来人だから道路を整備?


無理無理。


道路を造るにしても、どこに造る。

誰の土地を通す。

誰が働く。

誰が金を払う。

誰が守る。

周辺の領主は何と言う。


教会は。

商人は。

農民は。


私はコンクリートという言葉を知っている。

でも作り方なんて知らない。

それ以前に、この土地のことを何も知らない。


私よりこの人の方が、百倍どころか千倍、この場所の現実を分かっている。


「分かったか、アリエノール」


父が私を見た。


真面目な目だった。

三歳児に領地経営を語る顔ではない。


でも、たぶんこの人にとっては、子供だからとか関係ないのだろう。


”自分の娘にも、この土地がどうやって成り立っているのか、少しでも知っていてほしい”


そんな顔だった。


「……なんとなく」


舌足らずに、そう答えておく。


本当は、結構分かった。

でも三歳児が、


「要するにインフラ維持とキャッシュフローのバランスですね」


なんて答えたら、それはそれで怖い。

悪魔憑きを疑われて司教を呼ばれるのがオチだ。


私は父の首に、小さな腕を回した。


「ん?」


「なんでもない」


この真面目なお父さんの胃が

祖父のせいで、これ以上壊れませんように。


二歳児の小さな身体の中で、二十八歳の私は、そっと祈った。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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