第6話:石鹸ならございますが
諦めてない主人公
父上のハードすぎる領地経営講座から数日。
私の二歳児ボディーは、ようやくすっかり元気を取り戻していた。
熱もない。
頭も痛くない。
食欲もある。
なのに。
どうしても耐えられないことが、一つだけあった。
『お風呂に入りたい』
もちろん、何日も放置されているわけではない。
毎朝、侍女たちが湯を用意してくれる。
温めた布で顔や手を拭き、身体も丁寧に清めてもらっている。
だから、汚れたままというわけではない。
ないんだけど。
違う。
そうじゃない。
私は湯船に肩まで沈みたい。
「あ゛~~~~」
とか言いながら足を伸ばしたい。
モコモコの泡で頭を洗って、身体を洗って、最後にシャワーで全部流したい。
そして風呂上がりに冷たい飲み物がほしい。
文明。
文明が恋しい。
私は寝台の上でちっこい膝を抱え、遠い目をした。
……待てよ。
そこで、ふと思った。
転生もの。
異世界。
中世っぽい世界。
そして私は”未来人”。
これ。
もしかして。
(内政無双の出番では?)
私の脳内に、ぱあっと光が差した。
そうだ。
転生ものといえば現代知識。
現代知識といえば生活改善。
生活改善といえば――。
(石鹸じゃない!?)
来た。
これは来た。
世界史は八点だった。
だが私は一応、理系選択である。
化学なら多少は覚えている。
たしか石鹸は、油脂に強いアルカリを加えて加水分解する。
けん化。
高校の化学でやった。
つまり。
油。灰。水。
煮る。
たぶん。
……たぶん?
細かいところは怪しいけど、大筋は合っているはずだ。
木灰を水に浸して灰汁を作る。
それを動物の脂か植物油に混ぜて煮れば、石鹸になる。
ほら、できそう。
これならできる。
未来の科学技術なんて大げさなものはいらない。
電気も機械も必要ない。
身近な材料だけで作れる。
しかも石鹸ができれば、自分がさっぱりできるだけじゃない。
たくさん作って売ればいい。
貴族に売る。
金持ちに売る。
商人に流す。
アキテーヌの財政も潤う。
完璧。
世界史八点の私でも、化学なら戦える。
ついに来た。
私の時代が。
「あのね」
私は、そばで衣類を整えていた侍女を呼んだ。
「はい、アリエノール様?」
「はい……」
「灰?」
「うん。はい、おみずに、いれる」
侍女は首を傾げた。
私は小さな手を一生懸命動かして説明する。
「それで、あぶら。まぜまぜ。ぐつぐつ」
「灰汁と油を?」
「そう!」
通じた。
よし。
「それでね、からだ、あらうの!」
どうだ。
二歳児の無邪気な思いつきを装った、未来知識の提示である。
侍女はきっと驚く。
目を見開く。
そして。
「まあ! アリエノール様ったら」
侍女は本当に目を丸くした。
来た。
私の天才性に気づいたか。
「石鹸のことを、どこでお聞きになったのですか?」
「……え?」
石鹸。
今、石鹸って言った?
「せっけん……あるの?」
「ええ?」
今度は侍女の方が不思議そうな顔をした。
「ございますよ」
「……あるの?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい」
あるんかい。
私は固まった。
待て。
石鹸もうあるの?
普通に?
既製品として?
「灰汁と脂から作るものでございましょう?」
侍女は、まるで「パンは小麦から作りますよ」とでも言うような顔で続けた。
「布のお洗濯などにも使いますし、汚れを落とすには便利なものです。
ただ、お身体に使うには少し強すぎるものもございますが」
私は完全に停止した。
ある。
知ってる。
使ってる。
この人たち普通に石鹸を知ってる。
「あ、あのね……」
まだだ。
まだ終わっていない。
「いいにおいの。おいる……」
「香りのよい石鹸ですか?」
「うん!」
「南から来る商人が、そうした上等なものを扱うことはございますよ」
侍女は微笑んだ。
「とても高価ですけれど」
「……」
高級石鹸まである。
終わった。
私の石鹸無双。
開始三分で終わった。
(うわあああああ……!)
二歳児の身体の中で、二十八歳のアラサーOLが猛烈な勢いで赤面する。
恥ずかしい。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
現代にあるものは、昔にはない。
中世の人は、何も知らない。
だから私が教えてあげればいい。
どこかで、そんなふうに思っていた。
でも違った。
当たり前だ。
この人たちは、この時代で何百年も暮らしてきたのだ。
油もある。
灰もある。
火もある。
汚れを落とす必要だって、当然ある。
だったら、何かしらの方法を考えるに決まっている。
しかも。
少し冷静になって考えてみる。
私が今、本当に石鹸を一から作れと言われたら。
できるか?
灰汁の濃さはどう調整する?
油とどのくらいの割合で混ぜる?
何度で。
何時間。
どこまで煮る?
失敗したら?
アルカリが強すぎたら、皮膚を傷めるかもしれない。
油が多すぎたら、ただのベタベタした塊になるかもしれない。
そもそも。
食べ物にも灯りにも使える油を、どれだけ石鹸に回せる?
知らない。
何も知らない。
私は「石鹸は油とアルカリから作る」という完成された知識を、一行だけ知っている。
でも。
実際に作るために必要なことは、ほとんど何も知らなかった。
「アリエノール様」
「……ん?」
「お身体を拭きましょうか」
侍女が、湯気の立つ器を持ってきた。
「今日は香草を入れてありますよ」
布を浸し、ぎゅっと絞る。
ふわりと、柔らかな草の香りが漂った。
たぶん、カモミールに近い。
侍女はその温かな布で、私の腕を優しく拭いてくれた。
あったかい。
いい匂い。
泡は立たない。
シャワーもない。
でも、これはこれで、悪くない。
限られた材料。
限られた道具。
限られた技術。
その中で、この人たちはちゃんと暮らしている。
清潔にする方法も。
身体をいたわる方法も。
気持ちよく過ごす工夫も。
何もないわけじゃない。
ただ、”私が知らなかっただけ”だ。
(……まあ)
私は温かい布に頬を預けた。
石鹸は、ダメだった。
でも、まだある。
私は未来から来た。
車も知っている。
化粧品も知っている。
冷蔵庫だって知っている。
何か一つくらい。
この時代の人たちが知らなくて、私には分かることがあるはずだ。
さすがに一個くらいは。
ある。よね?
この時の私は。
まだ、本気でそう思っていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




