第49話:締め日前の経理を舐めるな
合わないとそうなるかなーみたいな。
その疑惑の毒は、誰かが大声で告発したわけではなかった。
むしろ、誰もが世間話のつもりで口にした何気ないささやきが、
少しずつルイの胸の中に沈んでいった。
「王妃様と公爵閣下、昨夜も遅くまでお話しだったとか」
「ずいぶん親しげでいらっしゃるそうですね」
「やはり南の方々は、男女の距離が近いのでしょうか」
回廊ですれ違う家臣や聖職者たちの、悪意とも好奇心ともつかないひそひそ声。
ルイ自身、そんな噂を信じたいわけではなかった。
むしろ逆だ。
”信じたくなかった”
”だからこそ、聞かなかったことにしようとした”
だが。
昨夜の中庭で、アリエノールは楽しそうに笑っていた。
自分には滅多に見せない顔で。
そして軍議では、自分の意見を退け、レイモンの案にはほとんど迷いなく賛同した。
”――叔父上、めっちゃ話通じる”
あの言葉まで、嫌になるほど鮮明に残っている。
信じたくない気持ちと、自分の目で見た光景が、勝手に一本の線へ繋がっていく。
その夜。
部屋へ戻った私を待っていたのは、蝋燭の火を見つめたまま黙って座るルイだった。
「……何?」
私は羊皮紙の束を抱えたまま首を傾げた。
肩が痛い。
目も疲れた。
今すぐ横になりたい。
そんな私へ、ルイは静かに尋ねた。
「昨夜は……ずいぶん遅くまで、レイモン殿とご一緒だったそうですね」
「ああ、うん」
私は肩を回しながら答えた。
「昨日どころか今日もだけど。疲れたー」
ルイの表情が、ほんの少しだけ固まった。
当然、私は気づかない。
「……二人きりで?」
「途中からね。書記官たち帰したから」
「人払いを?」
「そりゃするでしょ。機密情報だし」
沈黙。
「……何を、されていたのですか」
「は?」
「夜更けまで。二人きりで」
その聞き方に、ようやく私は眉をひそめた。
抱えていた羊皮紙の束を、机の上へどさっと置く。
「経理の突合作業だよ!!!!」
ルイが目を瞬いた。
「アキテーヌ側が負担した食糧費と、アンティオキア側で立て替えてもらった輸送費!
それから馬と荷駄の損失分! 数字が全然合わないから、帳簿突き合わせてたの!!」
「……夜更けまで?」
「締め日前の経理舐めんな!!!!」
思わず叫んだ。
「こっちの書記官とあっちの書記官で単位の扱い違うし、金貨も銀貨も入り乱れてるし、
どこで何を誰が立て替えたのか記録もガバガバなの! 数字合わないまま放置できるか!!」
「しかし」
「色気ゼロ! 帳簿! 数字! 計算! 以上!!」
私は机を叩いた。
「むしろ殺伐としてたわ!」
そこまで言って
私は、ようやく気づいた。
ルイの顔から、疑いが消えていない。
むしろ。
”信じたいのに、信じきれずにいる”ような。
そんな顔だった。
「…………」
嫌な予感がした。
さっきまでの怒りとは違う、冷たいものが背中を這う。
「……ちょっと待って」
私はゆっくり立ち上がった。
「まさか」
ルイは黙っている。
「……私と叔父上のこと、疑ってる?」
返事はなかった。
けれど、その沈黙で十分だった。
「……叔父だぞ!?」
思わず声が裏返る。
「実の父親の弟! 親戚のおじさん! そこ疑う!?」
ルイは苦しそうに目を伏せた。
「血縁であることだけで、すべての疑念が消えるわけではありません」
「消えるだろ普通!!」
「……あなたにとっての普通と、私にとっての普通は、同じではないのでしょう」
「はぁ!?」
ルイの声は静かだった。
けれど、その静けさが余計に腹立たしい。
「宮廷では、血縁であっても、政略や感情が絡むことはあります。
南方では男女が親密に語り合うことも珍しくないと聞きます。私はただ……」
「ただ何よ」
ルイは言葉を詰まらせた。
言いたくない。
けれど聞かずにはいられない。
そんな顔だった。
「……あなたは以前も、身内だからという理由で、ペトロニーユを庇おうとした」
「は?」
「家族には、甘いところがある」
そこで妹の話を出すか。
胸の奥で、何かが一気に燃え上がった。
「それとこれとは全然違うでしょ!!」
「私には、そう簡単には」
「簡単だよ!!」
私は拳を握った。
「叔父上は叔父上! ペトロニーユの件とは何の関係もない!」
「ですが」
「誰がいつ、あんたを裏切ったっていうのよ!」
思っていた以上に、大きな声が出た。
「こっちは死にかけながらここまで来て、それでも軍の帳簿まで片づけて、
何とか立て直そうとしてんの! それを捕まえて、夜に男と二人だったから怪しいって!?」
ルイが何か言おうとする。
私は遮った。
「馬鹿馬鹿しい!」
悔しかった。
腹が立った。
疑われたことそのものが、何より腹立たしかった。
「何が主の戦士よ。自分の妻ひとり信用できないくせに!」
「アリエノール」
「パワハラ尋問やめろ!!」
私は踵を返した。
入口の布を乱暴に跳ね上げ、そのまま夜の回廊へ出る。
ルイは追ってこなかった。
ただ一人。
部屋に残されたまま、遠ざかる私の足音を聞いていた。
胸元の十字架を、強く握りしめる。
「……なぜ」
小さな声が漏れた。
「やましいことが何もないのなら、なぜ……そこまで怒るのですか」
そして、その問いこそが。
今の私なら聞いた瞬間、さらに三倍怒鳴り返していたに違いない。
一方。
冷えた夜の石畳を、私は足音も荒く歩いていた。
「なんでそんなに怒るんですか、みたいな顔しやがって……!」
誰もいない中庭で立ち止まる。
怒りがおさまらない。
むしろ、思い返すほど腹が立つ。
「疑われたから怒ってんだよ馬鹿野郎ぉぉぉぉ!!!!」
夜のアンティオキアに、私の絶叫が響いた。
話せば話すほど、
説明すれば説明するほど、
なぜか余計にこじれていく。
この夜。
私たち夫婦の信頼に、はっきりと一本の亀裂が入った。
そして。
その亀裂が、次に何を壊すのか
この時の私は、まだ知らなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




