第48話:仕事の会議に感情を持ち込むな
8点ちゃん、そういうとこだよ?
アンティオキア宮殿の大広間に、羊皮紙の地図が広げられた。
到着翌日に開かれた、本格的な軍議だった。
昨夜のワインの余韻もすっかり抜け、私は朝から完全に「仕事モード」に入っている。
前世を含めれば精神年齢は四十代後半。人生二周目のおばちゃんである。
だから当然、昨夜のルイの妙に重たい、
「……そうですか」
についても、
(また何か宗教絡みで一人で考え込んでんのかな。旅の疲れもあるだろうし、そのうち治るでしょ)
くらいにしか思っていなかった。
男心に疎いわけではない。
たぶん。
ただ、私の中でレイモン叔父さんは最初から完全に「親戚のおじさん」の棚へ収納されていた。
”たまに会えば土産話をしてくれて、ちょっと小遣いをくれそうな、気さくで頼れる親戚”
以上。
そんな相手と私が楽しそうに話しているのを見て、二十代前半の夫が嫉妬で胸を焦がしている、
などという発想そのものが存在しなかった。
地図の前に立ったレイモン叔父さんが、北東側を指先で示した。
「エデッサ伯領を失った今、北シリア方面の情勢を放置するわけにはいかない。
特にアレッポ方面の圧力は、アンティオキアにとって大きな脅威だ」
私は黙って地図を見る。
「このまま南へ向かってしまえば、背後に不安を残す。
今のうちに北方の脅威を抑え、アンティオキアの防衛を固めるべきだと思っている」
「そう!!」
思わず机を叩いた。
一斉に視線が集まる。
だが気にしない。
「そういう話をしに来たんでしょ、私たち!!」
私は地図を指した。
「エデッサ落とした連中が北にいるのに、そこ放っといて南へ行くの!?
アンティオキア大丈夫なの!? 叔父上の案の方が、どう考えても筋通ってるじゃん!」
これだ。
こういう話がしたかった。
敵がどこにいる。
何が危ない。
どこを守る。
何を優先する。
目的と手段を整理して、現実的な判断をする。
軍議って、そういうものでしょうが。
――ところが。
「……いいえ」
静かな声が割り込んだ。
ルイだった。
胸の前で組んでいた手を解き、まっすぐレイモン叔父さんを見る。
「我らの目的は、まず聖地へ赴き、誓願を果たすことです」
声は穏やかだった。
けれど、譲る気がないのは一目で分かった。
「我らは単なる遠征軍ではありません。主への誓いを胸に、聖地を目指してここまで来たのです。
まずエルサレムへ向かうべきです」
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「いや待って待って!」
私は両手を上げた。
「戦争しに来てるんだよね!? 今まさに北側に敵がいるのに、
そこ放っといて巡礼の予定優先するの!?」
「予定ではありません。誓願です」
「言い方変えても予定は予定でしょうが!」
「違います」
「違わない!」
広間の空気が一気に張り詰める。
私は頭を抱えたくなった。
「ルイ、前にも言ったよね!? 祈るなとは言わない。でも戦争と巡礼をごっちゃにするなって!」
「私にとって、それらは別ではありません」
「あーもう!」
会話が噛み合わない。
本当に噛み合わない。
だが。
ルイがエルサレム行きを譲らない理由が、単なる意地ではないことくらいは私にも分かっていた。
彼にとっては、”本気”なのだ。
ヴィトリーで起きたこと。
自分の罪。
贖罪。
誓願。
聖地。
全部が一本につながっている。
だから、北へ進むより先にエルサレムへ行くべきだと、本気で信じている。
そこまでは分かる。
分かるけど、納得はできない。
そしてルイの方にも、別の感情が混ざり始めていた。
昨夜。
自分には向けられないような笑顔を、妻がレイモンへ向けていた。
楽しそうに。
気を許して。
今朝になれば、今度は軍議で、自分が口を開くより先にレイモンの案を全面的に支持した。
『――叔父上、めっちゃ話通じる』
昨夜の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
ルイ自身、エルサレムへ向かうべきだという考えを曲げる気はなかった。
それは嫉妬とは関係なく、彼自身の信仰から出た結論だった。
ただ。
その結論を妻が即座に退け、レイモンの案には迷いなく賛同した瞬間。
胸の奥に刺さっていた小さな棘が、急に深く沈んだ。
「……あなたは」
ルイが私を見る。
「何」
「レイモン殿の言葉なら、何でも正しいと思うのですね」
「……は?」
何言ってんだこいつ。
私は眉をひそめた。
「正しいから正しいって言ってるだけだけど?」
「そうですか」
まただ。
あの言い方……
平坦で。
冷たくて。
なのに妙に重たい。
「だからその『そうですか』何なの最近!!」
ついに私も声を荒らげた。
「こっちは軍の話してんの! どうやってこれ以上死人を増やさないかって話!
なのに何で急に叔父上がどうとか、そういう話になるわけ!?」
「私は別に、そのようなことは」
「言ってるようなもんでしょうが!」
私には本気で意味が分からなかった。
仕事の会議に私情を持ち込むな。
感情論で議題をずらすな。
四十代会社員の感覚で言えば、それだけの話である。
けれど。
ルイにとっては、軍議だけではなかった。
自分の信仰。
王としての判断。
そして。
”妻が、自分ではなく別の男の言葉を選んだように見えた”
それが全部、同じ場所でぶつかっていた。
「……アリエノール」
レイモン叔父さんが、少し困ったように口を挟んだ。
「少し言い方が強すぎる」
「え?」
「王にも王の考えがある」
「でも叔父上」
「今日はここまでにしよう」
大人の判断だった。
これ以上続けても、軍議どころではない。
フランス軍とアンティオキア側の関係までこじれかねない。
私は不満たっぷりに口を閉じた。
ルイも何も言わなかった。
ただ、椅子から立ち上がると、そのまま広間を出ていく。
その背中を見ながら、私は盛大にため息をついた。
「なんなのあいつ……反抗期の高校生かよ」
「アリエノール」
「だってそうでしょう!? 仕事の話してるのに急に拗ねるんだもん!」
レイモン叔父さんは、何とも言えない顔で私を見た。
「……君も、もう少し彼の顔を見た方がいいかもしれないね」
「顔?」
「いや。今はいい」
「何それ」
私は首を傾げた。
本当に、分からなかった。
同じ机を囲みながら
私は【軍事戦略の合理性】を見ていた。
ルイは【信仰と王としての判断】に加えて、【妻との関係】まで同じ場所で見ていた。
レイモン叔父さんは【戦略】と【姪の立場】と【フランス王との関係】を同時に見ていた。
三人とも
最初から、別々の議題で会議をしていたのだ。
そして私は…
その致命的なズレに、まだ気づいていなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




