第47話:話が通じる大人って最高(※ただし夫の視線は死んでいる)
8点ちゃん大人なんだから気遣ってあげないと・・・(´・ω・`)
湯殿で数か月分の垢を落とし、久しぶりに清潔な薄絹の部屋着へ着替えた。
湿り気を含んだ夜風が、アンティオキアの回廊をゆっくり吹き抜けていく。
私は中庭の噴水脇に腰掛け、冷えた白ワインをひと口飲んでから、
手にした無花果へ思いきり齧りついた。
「んんん〜〜〜っ! 生き返る……! 人権って素晴らしい……!」
甘い。
柔らかい。
水分がある。
硬いパンでも塩漬け肉でもない。
それだけで涙が出そうだった。
向かいの石のベンチでは、レイモン叔父さんが楽しそうにグラスを傾けている。
「そこまで喜んでもらえるとは思わなかったよ」
「叔父上には分からないよ。私がここ数か月、何を食わされてきたと思ってるの」
「それはぜひ聞いてみたいな」
「聞く!? 聞いてくれる!?」
私は勢いよく身を乗り出した。
これだ。
この時点ですでに違う。
「話していい?」と聞いたら、「今は祈りましょう」ではなく、「聞くよ」と返ってくる。
素晴らしい。
会話というものは本来こうだったはずだ。
「叔父上、ちょっと聞いてよー!」
ワインの酔いも手伝って、私の口から溜まりに溜まった愚痴が一気に溢れ出した。
「うちの旦那さ、何か問題起きるとすぐ『主がお導きくださいます』とか
『これも天の試練です』とか言い出すの! いや、祈るなとは言わないよ!?
でもさ、敵の矢が飛んできてる時にまずやることそれじゃないじゃん!?」
「なるほど」
「しかもパンない、水ない、前の部隊どこ行ったか分かんない、後ろは遅れてる、
それでも『主は我らと共にあります』って!」
レイモン叔父さんは吹き出した。
「それは……ずいぶん大変だったね」
「そうなの!!」
私は思わず膝を叩いた。
「その反応!! それが欲しかったの!!」
「そんなに?」
「そんなに!!」
レイモン叔父さんは笑いながらも、少しだけ真面目な顔になった。
「山道で隊列が分断されれば、前も後ろも互いの状況が分からなくなる。
伝令も行き来できなければ、混乱は広がる一方だ。
そこへ敵に襲われたなら、君が怒るのも無理はないね」
「そう!! そういう具体的な話!!」
私は両手を広げた。
「『信仰心が足りない』とかじゃなくて、『伝令が死んでるから混乱する』っていう現実の話!!
もうそれだけで叔父上に給料払いたい!」
「私は君の部下ではないんだけどね」
「今からアンティオキア支社作ろう。私、経理やる」
「歓迎するよ」
「即採用!?」
「君なら帳簿より先に人を怒鳴って回りそうだけど」
「失礼な。帳簿も見るし怒鳴るよ」
「それは頼もしい」
二人で笑った。
ただそれだけだった。
本当に、それだけ。
親戚の気さくな叔父と、長期出張で心身ともに疲れ果てた姪が、
酒を飲みながら愚痴をこぼしている。
色気なんて欠片もない。
私にとってレイモン叔父さんは、顔が良くて話が通じて、しかも現実的な返事をしてくれる、
非常にありがたい親戚のおじさんだった。
”それ以上でも、それ以下でもない”
「でも、本当によくここまで来たね」
レイモン叔父さんが静かに言った。
「アキテーヌを離れてからも、いろいろあったんだろう?」
その声音が少しだけ優しくなった。
私は一瞬、言葉に詰まった。
父の死。
突然の結婚。
王妃。
妹の騒動。
戦争。
ヴィトリー。
十字軍。
何だか、全部まとめて思い出したくない。
「……まあ、いろいろ」
「そうか」
レイモン叔父さんは、それ以上聞かなかった。
それもありがたかった。
無理に励まさない。
正しさを説かない。
”ただ、こちらが話すのを待ってくれる”
私はワインをもうひと口飲んだ。
「叔父上」
「ん?」
「話が通じる大人って最高だね」
レイモン叔父さんは一瞬きょとんとしたあと、腹を抱えて笑った。
「君はいったい、今までどんな大人に囲まれていたんだ」
「聞かないで。泣くから」
朗らかな笑い声が中庭に広がった。
その時だった。
回廊の奥で、衣擦れの音がした。
振り返ると、柱の影にルイが立っていた。
入浴は済ませたらしく、旅の汚れは落ちている。
けれど相変わらず飾り気のない服を着て、胸元の十字架に手を添えていた。
「……あ、ルイ!」
私は何の警戒もなく手を振った。
「起きてたの? こっちおいでよ。ワイン美味しいよ!」
ルイは少し間を置いてから、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「楽しそうですね」
声は穏やかだった。
怒ってはいない。
責めてもいない。
それなのに、妙に平坦だった。
「うん! 叔父上めっちゃ話通じる!」
私は満面の笑みで答えた。
「私の言いたいこと、ちゃんと分かってくれるんだもん!」
レイモン叔父さんが苦笑する。
「少し愚痴を聞いていただけだよ」
「それが重要なの!」
ルイは黙って私たちを見た。
『アリエノールが、自分といる時にこんなふうに声を上げて笑ったことがあっただろうか』
思い返してみても、すぐには浮かばない。
パリでは、いつも何かに苛立っていた。
小アジアでは、怒鳴ってばかりいた。
自分へ向けられる顔と、今目の前にある顔が、妙に違って見える。
そのことが、なぜか胸の奥に小さく引っかかった。
「……そうですか」
ルイは、それだけ言った。
「うん。叔父上ほんと最高」
追撃。
私はもちろん無自覚だった。
ルイの表情が、ほんの少しだけ固くなったことにも気づかない。
「ルイも飲む?」
「私は結構です」
「またそうやって真面目ぶるー」
「……そういうわけでは」
「まあいいや。じゃあ私が飲む!」
再びグラスを傾ける。
レイモン叔父さんが笑う。
私も笑う。
ルイだけが、少し離れた場所に立ったまま、その輪の中へ入りきれずにいた。
まだ、それだけだった。
嫉妬と呼ぶほど明確でもなく。
怒りと呼ぶほど激しくもない。
ただ、自分の知らない妻の笑顔を見てしまった。
そして。
その笑顔を、自分ではなく別の誰かが引き出している。
そんな小さな違和感が、胸の奥にひとつだけ残った。
その夜の私は、それに気づくことなく
久しぶりに腹の底から笑いながら、二杯目のワインへ手を伸ばしていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




