第46話:話の通じる大人がいるだけで、人は泣ける
気づけよ8点ちゃんw
地獄の船旅だった。
船酔いで胃液を吐き散らし、塩風で皮膚はかさつき、髪は好き勝手に爆発している。
心身ともに擦り切れてマイナス百二十点。人間としての尊厳を半分くらい海へ落として、
ようやく辿り着いたのがアンティオキア公国だった。
港からアンティオキアの街へ移動している間も、私は完全に死んだ魚の目をしていた。
どうせまた、寒々しい石造りの部屋に通されて、硬いパンを齧りながら、
夫のありがたいお説教と徹夜の祈祷につき合わされるのだろう。
もう期待しない。
期待すると傷つく。
そう思っていた。
だが。
「……え?」
アンティオキアの宮殿に足を踏み入れた瞬間、私は思わず立ち止まった。
明るい広間。
色鮮やかな織物。
開け放たれた窓から入ってくる、柔らかく暖かい風。
どこからか漂ってくる香草と果物の匂い。
そして何より。
人が、”ちゃんと生活”している。
「文明……」
思わず声が漏れた。
いや、もちろんこれまでいた場所だって文明圏ではある。
分かってる。
分かってるけど。
ここ数か月、泥と埃と血と祈りと飢えと矢しか見てこなかった人間にとっては、
清潔そうな布とまともな食事の匂いがするだけで、もう文明なのである。
その時
広間の奥から、一人の男が歩いてきた。
背が高い日焼けした精悍な顔立ち。
身のこなしも軽く、いかにも武人らしい体つきなのに、どこか洗練されている。
そして何より。
「ようこそ、アリエノール」
その言葉を聞いた瞬間。
私は固まった。
懐かしい響きだった。
北フランスの言葉ではない。
もっと柔らかく、明るく、耳に馴染む南の言葉。
アキテーヌで、幼い頃から聞いてきた音だった。
「本当に、よく無事で来てくれたね。過酷な旅だったろう」
男はそう言って、私の顔をまっすぐ見た。
普通の声量で。
普通の速さで。
主語も目的語も省略せず。
こちらの返事を待ちながら。
私は息を呑んだ。
(しゃべる……)
ちゃんと会話が成立する。
(人間同士の会話が成立する……!!)
不覚にも、目頭が熱くなった。
なにせここ数か月。
私の話し相手といえば、「すべては主の御心です」と現実から精神だけ先にログアウトする夫か、
「たぶん大丈夫です」で崖へ突っ込んでいく現場猫騎士団くらいだったのだ。
普通に話しかけられる。
普通に返事が返ってくる。
それだけで感動するなんて、前世の私が聞いたら鼻で笑っただろう。
「叔父上の……レイモン?」
「そうだよ」
男は笑った。
そうだ。
亡き父、ギョームの弟。
私の実の叔父。
『レイモン・ド・ポワティエ』
遠く東方へ渡り、アンティオキア女公コンスタンスと結婚し、この地の公となった男。
つまり。
”親戚のおじさん”である。
しかも。
めちゃくちゃ顔がいい。
「そんなに固くならなくていい。ここではただの叔父だ」
レイモン叔父さんは、改めて私を上から下まで眺めると、すぐに眉を寄せた。
「……ずいぶん痩せたね」
「え」
「顔色も悪い。まず休んだ方がいい」
そのまま振り返り、家臣たちに迷いなく指示を出す。
「湯を用意して。着替えも。それから食事を。重すぎないものからでいい」
湯。
着替え。
食事。
私は目を見開いた。
「果物もお願いしよう。長旅でまともなものを食べていないだろう」
果物。
「あと、今夜は誰も彼女を軍議に呼ばないように」
私は震えた。
「え」
レイモン叔父さんが振り返る。
「話は明日でいい。今夜くらい、何も考えずに休みなさい」
「や、休ませてくれる……?」
「当然だろう?」
”当然”
今。
当然って言った?
業務の進捗を聞く前に。
報告書を書かせる前に。
「今日はもう帰って寝ろ」と言える大人が、この時代に存在した。
私は両手で口元を押さえた。
「神……」
「ん?」
「ここに本物のホワイト企業があった……」
「ほわいと?」
「気にしないでください……」
もう無理だった。
ここ数か月分の緊張が、一気にほどけていく。
湯がある。
飯がある。
果物がある。
寝ていいと言われる。
しかも。
『話が通じる』
「天国……」
「そこまでかい?」
「叔父上には分からないと思います……」
私は本気で泣きそうになりながら頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に……助かります……!」
レイモン叔父さんは少し驚いた顔をしたあと、困ったように笑った。
「礼を言われるようなことじゃないよ。さあ、まず休みなさい」
肩を軽く叩かれる。
もう後光が見える。
親戚の頼れるおじさん最高。
前世の長期出張で、地獄の現場から突然まともなホテルへ移されたくらいの落差だった。
「叔父上、本当にありがとうございます!」
私は久しぶりに、心の底から笑った。
そのまま侍女たちに案内され、湯殿へ向かおうとした時だった。
ふと、背中に視線を感じた。
振り返る。
少し離れたところに、ルイが立っていた。
泥と潮風にまみれた旅装のまま。
いつものように祈っているわけでもなく。
何か言うでもなく。
ただ、
”私とレイモン叔父さんを見ていた”
怒っているようには見えなかった。
けれど少しだけ。
取り残された子供みたいな顔をしていた。
「……?」
何だろう。
疲れてるのかな。
「ルイー!」
私が手を振ると、ルイは小さく肩を揺らした。
「あなたも早く湯に入った方がいいよ! ここ、すごい! ちゃんとお湯ある!!」
「……そうですか」
「飯もあるって! 果物も!」
「……よかったですね」
「うん!」
私は何の疑いもなく笑って、そのまま侍女たちの後を追った。
だからその時のルイが、私の背中を見ながら。
ほんの少しだけ
何かを考えるように目を伏せたことにも気づかなかった。
ただ久しぶりに。
「ああ、やっと休める」
それだけで、頭がいっぱいだった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




