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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第45話:それ、サンクコストって言うんだよ!!

(´・ω:;.:...

小アジアの荒野を這うように進み、やっとの思いで辿り着いた港町アッタリア。

潮風の匂いを嗅いだ瞬間、私は確信した。


ここだ。

ここがプロジェクト終了地点だ。


目的だったエデッサ伯領の救援は、まだ達成できていない。

軍の戦力は、カドモス山の奇襲と長い行軍で激減。

補給は死にかけ、兵士も巡礼者も疲労困憊。士気なんて、とっくに地面へめり込んでいる。


どう考えても、ここで一度立て直すべきだ。


いや。

いっそ帰ろう。


「撤退。完全撤退。はい、解散!」


私は港の桟橋で、両手をぱんぱんと叩いた。


「もう帰るでよくない!? 港あるじゃん! 西向きの船探そうよ! 

パリへ帰ろう! 経費精算して有休消化! 今回のプロジェクトは失敗しました、以上!」


隣に立っていたルイが、信じられないものを見るような顔でこちらを振り返った。


「アリエノール。何を言っているのですか」


「すごく常識的なこと」


「ここまで多くの苦難を乗り越えてきたのです。数多の同胞が命を落としました。

その犠牲を無駄にしないためにも、我らは聖地へ向かわねばなりません」


ああ…来た。

一番嫌な言葉だ。


私は額を押さえた。


「ルイ。それ、現代……じゃなくて、商売の世界で何て言うか知ってる?」


ルイは少し考えた。


「主への忠誠でしょうか」


「サンクコストって言うんだよ!!!!」


港にいた鳥が一斉に飛び立った。


「埋没費用! もう戻ってこない金や時間や人手に引きずられて、

『ここまで使ったんだから』ってさらに赤字を垂れ流すやつ!!

 会社ならとっくに緊急会議して中止のハンコ押してるわ!!」


「主への誓いに、損得の計算は――」


「撤退も立派な判断なの!! 損切りって知ってる!?

このまま全員死んだら、それこそ今まで死んだ人たち何だったのって話でしょうが!!」


ルイは口を閉じた。

納得したわけではない。

顔を見れば分かる。


こいつの中では、「ここまで来たのだから進む」ではなく、

「ここまで来たからこそ使命を果たさなければならない」なのだ。


信仰。

責任感。

罪悪感。

全部が絡まって、サンクコストの概念なんて入り込む隙間がない。


私は深くため息を吐いた。


だが。

事態は、私の「もう帰ろうよ」論など可愛く思えるほど、別方向へ悪化していた。


海路でアンティオキアへ向かう。

そう決まったところまではよかった。


問題は。


「……少なっ」


港に用意された船を見た瞬間、私は素で呟いた。


どう見ても足りない。

全然足りない。

これまで一緒に移動してきた人数を考えれば、一目で分かる。


「え。これだけ?」


誰かに聞いた。

返ってきたのは、気まずそうな沈黙だった。


「いやいやいや。軍隊と巡礼者、何人いると思ってんの? 全員乗らないよね?」


現地側との交渉を終えた者たちから、説明が始まった。


船には限りがある。

全軍を一度に運ぶことはできない。

そこで、国王夫妻、高位の聖職者、主要な諸侯や騎士などを優先して海路で先へ送り、

残った歩兵や巡礼者たちには陸路を続けてもらう。

そのための資金や護衛については、可能な限り手配する。


私はしばらく黙っていた。


「……は?」


聞き間違いかと思った。


「つまり何?」


もう一度聞く。


「船の席、役職順なの?」


周囲の顔に、「何を今さら」という空気が浮かぶ。


それが余計に腹立つ。


「現場社員は徒歩続行で、役員だけ飛行機に乗って先に移動するみたいなことしてない!? 

福利厚生どころか生存率まで役職連動してんだけど!!」


「アリエノール」


ルイが苦い顔で口を開いた。


「船が足りないのは事実です。全員を乗せることはできない」


「分かってる!」


私は即座に返した。


「分かるよ! 船が物理的に足りないのは分かる! 

ここで全員が立ち往生しても食料が尽きるのも分かる!」


だからこそ、苦しい。


誰かを選ばなければならない。

誰かを置いていかなければならない。


しかも、その「誰か」に選ばれるのは。


王でも、貴族でも、高位聖職者でもない。

ずっと歩いてきた兵士や、金も身分もない巡礼者たちなのだ。


「……でもさ」


私は声を落とした。


「『じゃあ偉い人から乗ります』で、本当にいいの?」


誰も答えなかった。

答えなんてないのかもしれない。


今ここで私が「全員平等にくじ引きしろ」と言ったところで、

軍の指揮官や重要人物まで残れば、それはそれで別の混乱が起きる。


頭では分かる。

分かるから、余計に腹が立つ。


それでも出発の時は来た。

私は気づけば船の上にいた。


誰かに促され。

誰かに荷物を渡され。

何となく流されるように甲板へ乗せられて。

船がゆっくりと岸を離れていく。


その時になって初めて、私は本当に置いていくのだと理解した。


海岸には、大勢の人が残っていた。

疲れ果てた兵士。

痩せた巡礼者。

怪我をした者。

泥と埃にまみれたまま、こちらを見送っている。


手を振る者もいる。

祈る者もいる。

ただ、ぼんやり立ち尽くしている者もいる。


私は船べりを掴んだ。

喉が、からからに乾いた。


「……これ、本当に置いていくんだ」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。


前世なら。

社員を切れば、少なくとも命までは取られない。

会社が潰れても、世界そのものが終わるわけじゃない。


でもここでは…

置いていかれた人間が、そのまま死ぬかもしれない。


それが当たり前みたいに処理されている。


これが中世なのか。

これが戦争なのか。

これが十字軍なのか。


私には分からない。

分かりたくもない。


隣では、ルイが海岸へ向かって祈っていた。


残された者たちが無事に進めるように。

神が彼らを守ってくださるように。


その横顔は、本気だった。

だから余計にやるせない。


私は奥歯を噛み締めた。

胸の奥に、重たいものが溜まっていく。


このまま黙っていたら、罪悪感で押し潰されそうだった。


だから。

私は両手で、自分の頬を思い切り叩いた。


「……いやいやいやいや!!」


甲板に、ぱん、と音が響く。

ルイが驚いてこちらを見る。


「アリエノール?」


「このまま沈むな私!!」


自分に言い聞かせるように叫んだ。


「好感度もカルマも底抜けるだろこれぇぇぇぇぇ!!!!」


「かる……?」


「知らなくていい!!」


私は大きく息を吸った。

そして、遠ざかる海岸から無理やり視線を外す。


「アンティオキア着いたら、絶対いい飯食う!!」


「……はい?」


「ふかふかの寝床で寝る! 風呂入る! 現地で一番うまい酒も飲む!!」


「アリエノール、今その話を」


「今だからするの!! そうでもしないと精神がもたないの!!」


私は海へ向かって怒鳴った。


「ここまで来たんだから、せめて一個くらい『来てよかった』って思わせろ中東ぉぉぉぉ!!」


潮風が顔にぶつかる。


遠ざかる陸地は、少しずつ小さくなっていった。


笑っていなければ。

怒っていなければ。

くだらないことでも考えていなければ。


たぶん、私はずっとあの海岸を見続けてしまう。


だからこの時だけは

無理やりでも、次のことを考えるしかなかった。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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