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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第42話:おフランス、東ローマに完敗する

とりあえずの息抜きかな

果てしない悪路と泥にまみれ、何週間も東へ進み続けた末。

ついに前方に、東ローマ帝国の首都――コンスタンティノープルの姿が見えた瞬間。

私の中にあった「中世ヨーロッパ」という雑なイメージは、音を立てて崩壊した。


「……え、待って」


馬上で、私はしばらく口を開けたまま固まった。


巨大な城壁。

幾重にも連なる防御施設。

遠くまで続く市街地。


港には、大小さまざまな船がひしめいている。

道を行き交う人間の数も、扱われている品物も、パリとは桁が違った。


「こっちが都会じゃん!!!!」


思わず叫んだ。


いや本当に。

何これ。

私が今まで「中世ヨーロッパ」として見てきたものは、何だったんだ。


パリでは、狭い道を人と馬と荷車が押し合いへし合いしていた。

雨が降ればぬかるむ。

豚は歩く。

建物は密集する。


石造りの立派な建物はもちろんあるけれど、

それでも全体としては「まあ、中世だよね」と納得できる景色だった。


ところが、

目の前のコンスタンティノープルは違う。


「文明格差どうなってんの!?」


私は周囲をきょろきょろ見回した。

石造りの建物が並び、往来には商人や役人、聖職者、異国から来たらしい人々が溢れている。

耳に入ってくる言葉も一つではない。


ギリシャ語らしきもの。

ラテン語。

聞いたことのない響きの言葉。


服装だって、私の知っているフランス宮廷とは違う。

色彩も生地も豊かで、絹らしき布をまとった人間が珍しくない。


市場には香辛料、ガラス器、宝石、果物、織物。

見たことのない品物が、当たり前みたいな顔で積み上げられている。


「待って待って」


私は頭を抱えた。


「私が『中世ヨーロッパ』だと思ってたの、西の一部だけじゃん!」


世界史八点。

またしても敗北。


「パリ、全然負けてるじゃん!!」


近くを歩いていたフランスの騎士が、ものすごく嫌そうな顔でこちらを見た。


「王妃様……」


「いや、だって見てよ! 港の規模から違うじゃん! 

人も多いし、商売もすごいし、建物もデカいし!」


少し先には、巨大な聖堂がそびえていた。


アヤソフィア。

黄金に輝く装飾と、圧倒的な規模。

私は馬から落ちそうになる勢いで見上げた。


「でっか……」


後世のパリを知っている私からすれば、「おフランスこそ芸術と文化の本場」という刷り込みがある。


でも。

この時代ではどう見ても。


「おフランス、負けてない?」


誰かに聞いた。

誰も答えなかった。


都へ入ってからも、私の興奮は止まらない。


水を引く設備。

貯水施設。

浴場。市場。港。宮殿。


全部が「ローマ帝国、まだ生きてます」と全力で主張してくる。


「お風呂あるじゃん!」


私は目を輝かせた。


「ちゃんと身体洗える場所あるじゃん! 入りたい! 今すぐ入りたい! 

何週間分の馬と汗と土埃を全部流したい!!」


侍女たちも、完全に同意の顔をしていた。


何しろこちらは、長い行軍で全員だいぶ限界である。


文明、素晴らしい。

風呂、もっと素晴らしい。

市場で出された、蜂蜜や果汁を使った甘い菓子を口にした時など、本気で泣きそうになった。


「……美味しい」


「王妃様?」


「文明の味がする……」


泥と干し肉と硬いパンに慣れすぎた舌へ、久しぶりに文化的な味が染み渡る。


私はしばし目を閉じ、幸福を噛み締めた。


ところが。

隣の夫は、まったく別の意味で周囲を見ていた。


「アリエノール。あまり気を緩めない方がよい」


ルイが低い声で言う。


「何で?」


「彼らは我々とは異なる典礼に従う。それに、皇帝はトルコ人とも休戦を結んでいると聞きます」


「ふーん」


「ふーん、ではありません」


ルイの眉間に皺が寄る。


「我らが聖地を目指しているというのに、彼らは我らを快く思っていない」


「まあ……そりゃそうじゃない?」


「なぜです」


「いや、考えてみなよ」


私は周囲を指差した。


「突然、西の方から武装した人間が何万人規模で来て、

『聖地行くから道貸して。食料も欲しい。船も出して』って言ってるんだよ?」


ルイが黙る。


「私が皇帝でも怖いわ」


実際、東ローマ側の役人たちは、ものすごく丁寧だった。


丁寧ではある。

礼儀もある。

笑顔もある。


でも、

”目が笑っていない”。


「おお、西方の偉大なるフランス王よ。遠路はるばる、よくぞお越しくださいました」


「うむ」


「聖地への尊き遠征、まことに素晴らしいことでございます」


「その通りだ」


「ところで」


役人の笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。


「アジア側へお渡りになる船の準備が整っております」


「もう?」


「もちろんでございます」


「我々はまだ到着したばかりだが」


「必要な物資も可能な限りご用意いたしましょう」


「……そうか」


「明日にでも出発できます」


「…………」


「今夜でも」


私は思わず顔を伏せた。


分かる。

この空気ものすごく分かる。


「これ、前世で見たことある……」


「何がです?」


私は小声でルイへ囁いた。


「アポなしで大企業の受付に突撃した零細企業の営業が、

『担当者は不在ですので資料だけお預かりしますね^^』って帰される時のやつ」


「何を言っているのですか」


「要するに、早く帰ってほしいんだよ」


ルイの顔が険しくなる。


「我々は主の軍勢です」


「向こうからしたら、大量の武装集団」


「失礼な」


「現実を見ろ」


むしろ門前払いされず、補給まで手配してもらえるだけありがたい気がする。


こちらは長旅で疲れ切った軍勢。

しかも、これだけの人数を抱えていれば、食料を巡って揉める者も出る。

盗みを働く奴だっているだろう。

東ローマ側からすれば、一日でも早く海の向こうへ送り出したいに決まっている。


「大企業側にも事情あるんだよ……」


私はしみじみ呟いた。

それでも、滞在している間くらいは楽しませてもらおう。


私は再び甘い菓子へ手を伸ばした。


「ルイも食べる?」


「私は結構です」


「美味しいよ」


「巡礼の途中で、世俗の甘味に心を奪われるわけには」


私は一つ摘まみ、そのままルイの口へ押し込んだ。


「んぐっ」


「どう?」


ルイはしばらく固まった。


もぐもぐ。


「…………甘い」


「美味しい?」


「……はい」


「でしょ?」


耳が少し赤い。


まったく。

こういう時だけ年相応の顔をする。


「ねえ、帰りもここ寄ろうよ」


「まだ聖地に着いてすらいません」


「お土産買いたい。絹とか香辛料とか」


「アリエノール」


「あと風呂」


「……風呂は、私も少し」


「入りたいんじゃん」


ルイは目を逸らした。


私は笑った。


久しぶりに。

本当に久しぶりに、旅を少しだけ楽しいと思った。


コンスタンティノープルは、想像していた中世の世界とはまるで違っていた。

世界は私が知っているより、ずっと広いらしい。


――そして。

そんな文明の塊みたいな都をあとにし。


東ローマ側が非常に手際よく用意してくれた船で海を渡り。

小アジア側へ足を踏み入れた瞬間、

私は思い知ることになる。


都会の便利さというものは。

都会を出たらびっくりするほど役に立たない。


待っていたのは、土地勘なし。


補給難。

情報共有ガタガタ。


そして。

こちらの行動をよく知っている敵。


この時の私は、まだ知らなかった。


十字軍という巨大プロジェクトが

ここから先、本格的な炎上フェーズへ突入することを。




※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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