第35話:妹が既婚者を連れてきた
この先どうなるか知ってたら8点ちゃんは全力で止めたであろうが。(とめられたとは言ってない)
あれから、数年。
アデル王太后様は、あの一件以来こちらの宮廷運営にはほとんど口を出さなくなり、
その後再婚して、以前ほど王宮へ姿を見せなくなった。
私はといえば、
「姑に勝った^^」
「妹も手元に残して守りきった^^」
「最初は石像だった夫も、案外私の言うことを聞いてくれるいい奴^^」
と、わりと本気で思っていた。
宮廷生活は、すっかり平和になっていた。
私室やサロンには南から来た詩人たちが集まり、音楽が流れ、
アキテーヌから取り寄せた酒が並ぶ。最初は冷たく、薄暗く、
息が詰まりそうだったパリの宮廷も、少しずつ自分が呼吸できる場所に変わってきた。
ルイは、相変わらず口数は少ない。
けれど以前のように、何を考えているのかまったく分からない石像ではなくなった。
私が楽しそうなら安心する。
私が怒ればおろおろする。
私が何か望めば、できる限り叶えようとする。
まあ。
扱いにくいところはあるけれど。
案外、悪くない旦那だった。
このまま適度にルイの手綱を握りつつ、王妃業とアキテーヌ女公業をなんとか回していけばいい。
私はそう思っていた。
かなり本気で。
――あの日、ペトロニーユが頬を林檎みたいに赤くして、私の私室へ飛び込んでくるまでは。
「姉上!」
「ん?」
私は膝の上に置いていた刺繍から顔を上げた。
ペトロニーユは見るからに浮かれていた。
『何かある』
その顔は知っている。
前世でも職場の女子更衣室や昼休みでよく見たやつだ。
「私、好きな方ができました!」
「おお^^」
来た。恋バナ。
女子会の定番。
私は刺繍を置き、少し身を乗り出した。
「よかったじゃん。あんたもそろそろそういう年頃だもんね。で、どこの誰?」
「ラウル様です!」
「ラウル様ね。どこの家の人?」
「ヴェルマンドワ伯です!」
「伯爵か。家柄も申し分ないじゃん。やるなペトロニーユ、玉の輿――」
妹の顔が、少し曇った。
「……ご結婚されています」
「…………」
私は笑顔のまま止まった。
手にしていた針が、ぽとりと布の上へ落ちる。
「……は?」
「だから、その……すでに正妻がおられるのですけれど。でも私たち、本気なのです!」
「いや不倫じゃん!!!!」
私の絶叫が、石造りの部屋に響いた。
ペトロニーユがびくっと肩を跳ねさせる。
「不倫ではありません! 真実の愛です!」
「その言い方する奴、だいたい不倫なのよ!!」
私は頭を抱えた。
まさか十二世紀のフランス王宮で、実の妹相手にこんな説教をする羽目になるとは思わなかった。
「相手、かなり年上でしょう!?」
「年齢など愛の前には関係ありません!」
「いや、そういう問題だけじゃなくて!」
「それにラウル様は、今の奥方とはもう終わっていると仰っています!」
私は両手で顔を覆った。
出た。
前世でも何度聞いたか分からないやつ。
妻とは冷え切っている。
もう夫婦として終わっている。
近いうちに別れる。
本当に愛しているのは君だけ。
既婚男性が若い女を口説く時の、時代を超えて伝承されるテンプレートである。
「そのセリフ、前世でも聞いたことあるやつーーー!!」
「ぜんせ……?」
「今そこはいい!」
私は勢いよく顔を上げた。
「で? そのラウル様とやらは、どうするって?」
「婚姻を解消するつもりだと仰っています。血縁の問題があるので、
今の婚姻は無効にできるかもしれないと」
「…………」
嫌な予感しかしない。
「向こうの奥方、どこの人だっけ」
「シャンパーニュ伯のお身内です」
「よりによってそこォ!?」
私は再び頭を抱えた。
いや待て。
落ち着け。
これは妹の恋バナじゃない。
有力伯爵。
既婚。
婚姻解消。
相手の妻も有力諸侯の身内。
しかもこっちは王妃の妹。
どう考えても、”個人の恋愛だけで終わる案件じゃない”。
「ペトロニーユ。よく聞いて」
私はできる限り低い声を出した。
「これはね。『好きな人ができました』で済む話じゃないの。
相手が誰と結婚してるか、その婚姻をどう処理するか、それで誰の面子を潰すか。全部政治になる」
「でも、姉上――」
「でもじゃない!」
その時だった。
「……何事ですか」
静かな声がして、私は振り返った。
執務を終えたらしいルイが、部屋の入口に立っていた。
「ちょうどいいところに来た!」
私は勢いよく手招きする。
「聞いてよルイ。この馬鹿妹が、既婚者と恋に落ちて――」
「不倫ではありません!」
「うるさい!」
ルイは私とペトロニーユを交互に見た。
そして事情を聞き終えると、しばらく黙り込んだ。
私は密かに期待した。
よし。
ここは国王だ。
さすがに今回は止めるだろう。
王として。
夫として。
常識人として。
少し考え込んだ末、ルイは私の隣へ腰を下ろした。
そして、そっと私の手を取った。
「……アリエノール」
「ん?」
「そなたは、妹君に幸せになってほしいのですね」
「そりゃそうだけど」
「ならば」
ルイは、ひどく真面目な顔で言った。
「血縁の問題があるというのなら、司教たちに調べさせればよいでしょう。
今の婚姻が無効と認められるのであれば、妹君は正式にラウル殿と結ばれることができます」
「…………」
静寂。
今度は別の意味で、部屋の空気が凍りついた。
ペトロニーユがぱっと顔を輝かせる。
「陛下……!」
私は逆に、全身から血の気が引いていくのを感じていた。
「……待て」
「?」
「ルイ。ちょっと待て」
「はい」
「今回は、私の味方をしなくていい」
「……?」
「むしろ全力で止めろ。妹の目を覚まさせろ」
ルイが、本気で分からないという顔をした。
「ですが、妹君が泣くのは、そなたも辛いでしょう」
「そうだけど!」
「私は、そなたが悲しむことを望みません」
まっすぐだった。
あまりにもまっすぐで。
悪意なんて欠片もない。
ルイは本気で、私のために言っている。
妹が幸せになる。
私も喜ぶ。
ならば、王としてできることをする。
それだけなのだ。
だからこそ怖い。
(待って待って待って)
頭の中で、何かが高速回転し始めた。
伯爵の婚姻に、王が介入する。
しかも、捨てられることになる妻は、有力諸侯の身内。
教会まで巻き込む。
これは。
どう考えても、妹の恋愛相談で終わる話じゃない。
「ルイ」
「はい」
「私が喜ぶなら、何でもしていいって話じゃないからね?」
ルイは、きょとんとした。
「もちろんです」
その返事がものすごく不安だった。
その瞬間。
何年も前、アデル王太后が息子に残していった言葉が、記憶の底からゆっくり浮かび上がってきた。
『王であることまで、忘れてはいけませんよ』
あの時。
私は知らなかった。
そんな釘を刺されていたことさえ。
ルイは確かに「はい」と答えたらしい。
きっと、その時は本人も守るつもりだったのだろう。
でも。
今、目の前にいる夫を見ていると。
嫌な予感しかしない。
あの時、刺さったように見えた釘は、
何年もの時間をかけて、静かに抜け落ちていたのではないか。
そしてその代わりに。
今さらになって、もっと大きな杭が私の胸へ向かって飛んできているような気がした。
「……ちょっと待って」
私は額を押さえた。
「これ、絶対まずいやつだよね?」
未来は分からない。
何が起きるのかも知らない。
世界史八点の私に、答えなんてあるはずもない。
ただ。
ものすごく嫌な予感だけは、やたらと当たりそうだった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




