第34話:刺された釘は刺さっていない
この先結構重めになっていきます。
なるべく明るく笑えるように進めていきたいですが、ご容赦ください!m(__)m
夜の静寂が、シテ島の古い王宮を包んでいた。
礼拝堂の灯火はほとんど落ち、祭壇の前に残された蝋燭だけが、石壁に長い影を揺らしている。
祈りを終え、静かにその場を離れようとしたルイを、アデル王太后が呼び止めた。
「ルイ」
「……母上」
ルイは足を止め、母へ向き直った。
薄暗い灯りの中で向かい合ってみると、アデルは今さらのように気づく。
かつて自分を見上げるばかりだった息子は、いつの間にか自分よりも背が高くなっていた。
王冠を戴くようになってから、まだそれほど日が経っているわけではない。
それでも、父を失い、王となり、妻を迎えた少年は、少しずつ母親の知らない顔を見せ始めていた。
「あなたは、あの方を……アリエノールを、ずいぶん大切にしているのですね」
責める声ではなかった。
皮肉でも、咎める言葉でもない。ただ息子の本心を確かめようとする、静かな問いだった。
ルイはすぐには答えなかった。
視線を落とし、しばらく黙り込む。以前なら、母の顔色を窺いながら、
正しい答えを探していたかもしれない。
けれど、やがて顔を上げたルイの瞳には、珍しく迷いがなかった。
「……はい」
たった一言だった。
飾りもない。言い訳もない。
けれど、それで十分だった。
アデルは小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
もう、この子は自分の傍らで祈りを捧げ、言われたことを素直に受け入れていた少年ではないのだ。
母の庇護の中にいた時間は、いつの間にか終わっていた。
南からやってきた、眩しいほどに自分とは違う娘を選び、
その娘が傷つきそうになれば、自分の意志で前へ出る。
それが正しい判断なのかどうかは、また別の話だ。
けれど少なくとも、もう母親が手を引いて歩かせる子供ではない。
胸の奥に、わずかな寂しさが残った。
同時に、長く王妃として先王を支えてきた者としての矜持が、
そこにいつまでも執着することを許さなかった。
「ならば」
アデルは静かに告げた。
「これからは、あなたが守りなさい」
ルイが驚いたように目を見開く。
「私はもう、あの方の周囲にも、この宮廷の細かな采配にも口を出しません」
「母上……」
「あなたが王であり、あの方が王妃なのですから。本来、それが当然なのでしょう」
どこか自分自身に言い聞かせるようにそう告げると、アデルは踵を返した。
数歩進んだところで、ふと足を止める。
「けれど、ルイ」
振り返ることなく、低い声で続けた。
「王であることまで、忘れてはいけませんよ」
妻を愛することと、王として国を見ることは、同じではない。
愛する者の涙を止めたいからといって、何もかもその望みのままに動かしてよいわけではない。
王の一言には、本人が思うより遥かに多くの人間の人生がぶら下がっている。
いつかその二つがぶつかった時、どちらを選ぶのか。
あるいは、選ばずに済む道を探せるのか。
それを考えることこそ、王の務めなのだと。
アデルは長い時間を王妃として生きてきた者の声で、最後の忠告を残した。
「……はい」
ルイは素直に頷いた。
その返事を聞いて、アデルはもう何も言わなかった。
静かな足音だけを残し、暗い回廊の向こうへ消えていく。
その背中を、ルイはしばらく見送っていた。
――なお。
そんな母子の、しんみりと重たい会話など、知る由もない翌朝。
「最近、王太后様ぜんぜん来なくない?」
私は焼きたてのパンをちぎりながら、何気なくそう言った。
向かいに座っていたペトロニーユが、ぱっと顔を輝かせる。
「姉上。これはもう、勝ったのでは?」
私はパンを持ったまま、しばし考えた。
確かに。
ここ数日、服装への苦言もない。詩人を呼ぶなとも言われない。
侍女の顔触れに口を出されることもない。
これはつまり。
「……勝ったな^^」
二人で、にやりと笑った。
「やりましたね、姉上!」
「ふははは。見たか。これが社会人経験というものよ」
「しゃかいじん……?」
「気にするな」
私は得意げに鼻を鳴らした。
「お局様ってのはね、真正面から感情的にぶつかっちゃ駄目なのよ。
聞くところは聞く。譲らないところは譲らない。
相手の顔も一応立てつつ、こっちの線だけ守ってれば、そのうち向こうも諦めるの」
「さすが姉上!」
「これで気兼ねなくクッションも増やせるし、南の酒ももっと取り寄せられる!
おいでおいで、アキテーヌの風!」
「詩人も呼びましょう!」
「呼ぼう!」
朝から姉妹で盛り上がる。
前世のアラサーOL時代に培った、なんとも限定的な対人経験に酔いしれる十五歳。
中身は四十路相当。
少し離れたところでは、ルイが私たちの騒ぎ声を聞いていた。
何を話しているのかまでは分からなかったらしい。
ただ私が楽しそうに笑っているのを見て、それだけで安心したように、
ほんの少し口元を緩めていた。
その顔を見た私は、
”なんだ。やっぱり案外、いい旦那じゃない。”
くらいにしか思っていなかった。
昨夜、アデル王太后がその息子に残した言葉など、当然知らない。
『王であることまで、忘れてはいけません』
その釘は刺さったように見えた。
ルイは確かに「はい」と答えた。
母の言葉も、きちんと聞いた。
だからその時は、アデル自身も、きっと大丈夫だと思ったのだろう。
ただ。
人間というものは、平穏な時に聞いた忠告ほど、いざ本当に大切なものを失いそうになった瞬間には、
きれいに頭から吹き飛ばす。
ましてや。
この少年王が、自分の愛する妻のためなら、どこまで行ってしまう男なのか。
私はまだ知らなかった。
たぶん、ルイ自身も知らなかった。
そしてもちろん。
世界史八点の私は、その答えを知るための予習など、これっぽっちもしていなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




