↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/44

第34話:刺された釘は刺さっていない

この先結構重めになっていきます。

なるべく明るく笑えるように進めていきたいですが、ご容赦ください!m(__)m

夜の静寂が、シテ島の古い王宮を包んでいた。

礼拝堂の灯火はほとんど落ち、祭壇の前に残された蝋燭だけが、石壁に長い影を揺らしている。


祈りを終え、静かにその場を離れようとしたルイを、アデル王太后が呼び止めた。


「ルイ」


「……母上」


ルイは足を止め、母へ向き直った。

薄暗い灯りの中で向かい合ってみると、アデルは今さらのように気づく。

かつて自分を見上げるばかりだった息子は、いつの間にか自分よりも背が高くなっていた。


王冠を戴くようになってから、まだそれほど日が経っているわけではない。

それでも、父を失い、王となり、妻を迎えた少年は、少しずつ母親の知らない顔を見せ始めていた。


「あなたは、あの方を……アリエノールを、ずいぶん大切にしているのですね」


責める声ではなかった。

皮肉でも、咎める言葉でもない。ただ息子の本心を確かめようとする、静かな問いだった。


ルイはすぐには答えなかった。

視線を落とし、しばらく黙り込む。以前なら、母の顔色を窺いながら、

正しい答えを探していたかもしれない。


けれど、やがて顔を上げたルイの瞳には、珍しく迷いがなかった。


「……はい」


たった一言だった。

飾りもない。言い訳もない。

けれど、それで十分だった。


アデルは小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

もう、この子は自分の傍らで祈りを捧げ、言われたことを素直に受け入れていた少年ではないのだ。


母の庇護の中にいた時間は、いつの間にか終わっていた。

南からやってきた、眩しいほどに自分とは違う娘を選び、

その娘が傷つきそうになれば、自分の意志で前へ出る。


それが正しい判断なのかどうかは、また別の話だ。

けれど少なくとも、もう母親が手を引いて歩かせる子供ではない。


胸の奥に、わずかな寂しさが残った。

同時に、長く王妃として先王を支えてきた者としての矜持が、

そこにいつまでも執着することを許さなかった。


「ならば」


アデルは静かに告げた。


「これからは、あなたが守りなさい」


ルイが驚いたように目を見開く。


「私はもう、あの方の周囲にも、この宮廷の細かな采配にも口を出しません」


「母上……」


「あなたが王であり、あの方が王妃なのですから。本来、それが当然なのでしょう」


どこか自分自身に言い聞かせるようにそう告げると、アデルは踵を返した。

数歩進んだところで、ふと足を止める。


「けれど、ルイ」


振り返ることなく、低い声で続けた。


「王であることまで、忘れてはいけませんよ」


妻を愛することと、王として国を見ることは、同じではない。


愛する者の涙を止めたいからといって、何もかもその望みのままに動かしてよいわけではない。

王の一言には、本人が思うより遥かに多くの人間の人生がぶら下がっている。


いつかその二つがぶつかった時、どちらを選ぶのか。

あるいは、選ばずに済む道を探せるのか。

それを考えることこそ、王の務めなのだと。


アデルは長い時間を王妃として生きてきた者の声で、最後の忠告を残した。


「……はい」


ルイは素直に頷いた。

その返事を聞いて、アデルはもう何も言わなかった。

静かな足音だけを残し、暗い回廊の向こうへ消えていく。


その背中を、ルイはしばらく見送っていた。


――なお。

そんな母子の、しんみりと重たい会話など、知る由もない翌朝。


「最近、王太后様ぜんぜん来なくない?」


私は焼きたてのパンをちぎりながら、何気なくそう言った。

向かいに座っていたペトロニーユが、ぱっと顔を輝かせる。


「姉上。これはもう、勝ったのでは?」


私はパンを持ったまま、しばし考えた。


確かに。

ここ数日、服装への苦言もない。詩人を呼ぶなとも言われない。

侍女の顔触れに口を出されることもない。


これはつまり。


「……勝ったな^^」


二人で、にやりと笑った。


「やりましたね、姉上!」


「ふははは。見たか。これが社会人経験というものよ」


「しゃかいじん……?」


「気にするな」


私は得意げに鼻を鳴らした。


「お局様ってのはね、真正面から感情的にぶつかっちゃ駄目なのよ。

聞くところは聞く。譲らないところは譲らない。

相手の顔も一応立てつつ、こっちの線だけ守ってれば、そのうち向こうも諦めるの」


「さすが姉上!」


「これで気兼ねなくクッションも増やせるし、南の酒ももっと取り寄せられる! 

おいでおいで、アキテーヌの風!」


「詩人も呼びましょう!」


「呼ぼう!」


朝から姉妹で盛り上がる。

前世のアラサーOL時代に培った、なんとも限定的な対人経験に酔いしれる十五歳。

中身は四十路相当。


少し離れたところでは、ルイが私たちの騒ぎ声を聞いていた。

何を話しているのかまでは分からなかったらしい。

ただ私が楽しそうに笑っているのを見て、それだけで安心したように、

ほんの少し口元を緩めていた。


その顔を見た私は、


”なんだ。やっぱり案外、いい旦那じゃない。”


くらいにしか思っていなかった。

昨夜、アデル王太后がその息子に残した言葉など、当然知らない。


『王であることまで、忘れてはいけません』


その釘は刺さったように見えた。

ルイは確かに「はい」と答えた。

母の言葉も、きちんと聞いた。


だからその時は、アデル自身も、きっと大丈夫だと思ったのだろう。


ただ。

人間というものは、平穏な時に聞いた忠告ほど、いざ本当に大切なものを失いそうになった瞬間には、

きれいに頭から吹き飛ばす。


ましてや。

この少年王が、自分の愛する妻のためなら、どこまで行ってしまう男なのか。


私はまだ知らなかった。

たぶん、ルイ自身も知らなかった。


そしてもちろん。

世界史八点の私は、その答えを知るための予習など、これっぽっちもしていなかった。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。