第22話:後継者ってブラック職では?
そろそろ所謂「アリエノール・ダキテーヌ」の歴史の本筋に入っていきます。
やったね!8点ちゃん!!
ギョームがいなくなった後、覚悟を決めたのはいい。
「逃げない」と決めて、小さな拳を握りしめたのも事実だ。
だが、現実というものはいつだって、そんな覚悟の上から無慈悲に書類の山を叩きつけてくる。
「後継者って、こんなブラック職だったの……!?」
執務室の硬い樫の椅子に座り、私は頭を抱えて机に突っ伏した。
目の前には、分厚い羊皮紙の束がこれでもかというほど積み上がっている。
税の仕組み。慣習法と裁判の記録。領地の境界。近隣貴族の、
聞くだけで頭痛がしてくる複雑な血縁関係。
主だった家臣の顔と名前と家紋。
教会関係者が持ち込んでくるラテン語。
公女としての礼儀作法。
歩き方。座り方。挨拶。
さらに音楽に詩まで。
「父上! 私、まだ七歳なんですけど!? 前世ならひらがなドリルやって、
朝顔に水やってる年齢なんですが!?」
「ひらがなドリルが何かは知らんが、いずれすべて必要になる」
父上は眉一つ動かさず、羊皮紙の巻物をさらに一束、机の端へ置いた。
「増やした!?」
「昨日の分が終わっていないだろう」
「見なかったことにして!」
「しない」
鬼。
私は恨めしげに父上を見上げた。
……とはいえ。
七歳なのは、この身体の話だ。
中身は二十八歳で死んだ会社員。
しかもここへ来てから、もう七年近く経っている。
単純に足していいものなのかは知らないけれど、感覚だけなら三十五歳。
改めて父上を見る。
年齢を正確には知らないけど。
下手したら。
(……精神年齢だけなら、父上とそんなに変わらないんじゃない?)
七歳児だから無理です、と駄々をこね続けるのも、それはそれで違う気がした。
そもそも私は一度、大人として働いていた。
理不尽な上司も。
終わらない仕事も。
意味の分からない会議も。
締切直前に仕様を変える人間も知っている。
羊皮紙がExcelに変わったところで、仕事というものの本質は案外そんなに変わらないのかもしれない。
しかも。
父上が、私をいじめたくてこんなことをしているわけではないことくらい、
中身が大人だからこそ、分かってしまう。
弟が死んだ。
母上も死んだ。
残った後継者は、私だ。
もし明日父上に何かあったら。
七歳だから分かりません。
家臣の名前も知りません。
どこが自分の土地かも知りません。
税も裁判も外交も分かりません。
それでは済まない。
父上はたぶん、それが怖いのだ。
自分がいなくなったあと…
何も知らない娘が、巨大なアキテーヌの真ん中へ一人で放り出されることが。
そう思ったら
机の上の羊皮紙が、少しだけ違って見えた。
「……まあ」
私は身体を起こした。
「やるか」
父上が顔を上げる。
「何か言ったか?」
「なんでもない。次、どれ?」
父上はほんの少し目を丸くしてから、黙って一枚の羊皮紙を差し出した。
その口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
――ただ。
後継者教育の量は、どう考えてもブラック企業だったけれど。
アキテーヌそのものが息の詰まる場所かというと、まるで逆だった。
夕刻になると、大広間には音楽と笑い声が満ちた。
弦を爪弾く音。
擦弦楽器の柔らかな響き。
恋や春や、美しい女性を歌う詩。
祖父が残した歌が披露されることもあった。
卓上には葡萄酒が並び、焼いた肉やパン、香辛料の匂いが漂う。
騎士たちが大声で笑えば、貴婦人たちも会話に加わる。
誰かが気取ったことを言えば、すぐに誰かが茶化す。
詩人が新作を披露すれば、褒める者もいれば、容赦なく笑い飛ばす者もいる。
もちろん。
ここが現代的な意味で自由な社会だなんて思わない。
身分はある。
男女の役割もある。
教会の力だって強い。
生まれによって人生の大部分が決まる。
”そんな世界”だ。
でも、だからこそ
前世を知っている私は、その中にある微妙な違いも感じ取れた。
ここでは、人がよく笑う。
歌う。
恋について堂々と語る。
美しいものを美しいと言う。
誰かを愛することや、人生を楽しむことそのものを、わざわざ恥じるような空気が薄い。
少なくとも私が勝手に想像していた、
「中世ヨーロッパ=全員が薄暗い城で神様に怯えながら無言で暮らしている」
なんて世界ではなかった。
「公女様! 勉強ばかりでは眉間に皺が寄りますぞ! 我が詩をお聴きあれ!」
髭面の詩人が大げさに胸へ手を当て、こちらへ向かって愛の歌を朗々と歌い始めた。
すかさず周囲から野次が飛ぶ。
「おい、七歳児を口説いてどうする!」
「相手を選べ!」
「いやいや、公女様ほど美しい女性は――」
「その台詞、この間は別の女に言ってたぞ!」
大広間がどっと沸いた。
私は膝の上で丸くなった猫を撫でながら、呆れてため息をつく。
てかあの爺。
残ってる歌、恋の歌ばっかりじゃねぇか。
死んでまで女好きの証拠を残すな。
そう思うのに。
歌を聞いていると、夕暮れの丘で祖父が言った言葉を思い出す。
『この土地の風はな、どこよりも自由で甘い』
子供だった頃はただ
「じいちゃん、また格好つけてる」
くらいにしか思っていなかった。
でも今なら少し分かる気がした。
祖父が愛していたのは。
酒でも。
女でも。
歌でもなく。
いや。
たぶん全部好きだったんだろうけど。
その全部を堂々と楽しめる、この土地の空気そのものだったのかもしれない。
「……なるほどね」
私は薄めた葡萄酒を少し口に含んだ。
甘い。
「そりゃ、好きになるわ」
ここには太陽がある。
葡萄畑がある。
歌がある。
冗談がある。
少し口の悪い人たちがいて。
遠慮なく笑う女たちがいて。
酒を飲めば声がでかくなる騎士たちがいる。
勉強はクソほど多い。
父上は相変わらず胃が痛そう。
それでも私はこの場所が好きだった。
祖父が命がけで愛し父上が胃を削って守っている。
この。
少し騒がしくて。
少し図々しくて。
”自由なアキテーヌ”が。
いつの間にか
私にとっても、当たり前の場所になっていた。
そんなある日。
執務室へ向かう途中で、私は父上が使者に何通かの書状を渡しているところを見かけた。
「父上。また北にお手紙?」
「そうだ」
「パリ?」
「ああ」
北――フランス王宮との使者の行き来は、以前より増えていた。
私は父上の袖を引く。
「なんで?」
父上は少しだけ考え、私を見下ろした。
「我らは広大な土地を持つ」
「うん」
「だが、広ければ強い、というほど世の中は単純ではない」
父上は書状をまとめながら続けた。
「土地を守るのは、兵と城だけではない。誰と手を結び、誰と争わずに済ませるか。その積み重ねも同じくらい重要だ」
「つまり外交?」
「そうだ」
来た。
とうとう外交までカリキュラムに追加された。
「いや、まだ早くない? 私、七歳なんですけど?」
口にしてから私は一度、自分の中身を思い出した。
二十八歳プラス七年。
ざっくり三十五。
「…………」
父上を見る。
「どうした?」
「いや」
私は肩を落とした。
「……やるわ」
「急に聞き分けがよくなったな」
「大人の事情があるんだよ」
「お前が大人の事情を語るな」
中身はそっちと大して変わらない可能性あるんですけどね。
とは言えない。
父上は私の頭へ大きな手を置いた。
「覚えておきなさい。力がある者ほど、一人では立てん」
「ふうん」
「アキテーヌも同じだ」
私は少しだけ首を傾げた。
その言葉の意味を、私はまだ外交の授業程度にしか考えていなかった。




