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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第23話:父上、再婚するってよ?

そろそろチュートリアル修了かな^^

アキテーヌの風は、今日もどこまでも甘くて自由だった。


「姉上! あの坂、先に下まで着いた方が勝ち!」


「待てペトロニーユ、そこ普通に崖――」


「行ってきまーす!!」


「ちょ、馬鹿ッ、手綱を引けぇぇぇ!!」


砂煙を上げて急斜面を駆け下りていく妹の背中を追い、私も愛馬の腹を蹴った。

妹のペトロニーユは、完全にこの南西部の水と太陽だけで育った、生粋のアキテーヌ娘だ。

遠慮という概念を母上のお腹の中に置き忘れてきたんじゃないかと思うくらい、

何事にも全力で突っ込んでいく。


私は手綱を握り直し、風を切って丘を駆け下りながら、

前世の記憶を引っ張り出して密かに感動していた。


(いや、若い身体すげえな! 三時間ぶっ通しで馬に乗っても腰が死なない!!)


前世のアラサーOL時代なら、デスクワークで腰はバキバキ、肩はガチガチ。

週末になるたび湿布だ整体だと金を使っていたのに、この十二歳の身体は驚くほどよく動く。


葡萄畑の脇をすり抜け、川の浅瀬を水しぶきを上げて渡り、

木陰で休憩していた騎士たちに手を振れば、野太い歓声とからかい混じりの口笛が返ってくる。


宴に出れば、誰よりも美味そうに肉を食べる。

リュートの音色が鳴れば足拍子を鳴らす。

気に入らない規則には真正面から文句を言う。

妹に至っては、騎士相手に勝手に競争を仕掛け、勝てば大威張り、

負ければ「もう一回!」と食い下がる。


そんな私たち姉妹を遠くから眺めていた父上はというと。


「…………」


「父上、顔が死んでるよ」


息を切らせながら馬を寄せると、父上は眉間を指で揉みほぐし、深すぎるため息をついた。


「…………自由に育てすぎたか」


「いまさら? おじいちゃんの遺伝子を恨んでください」


私が肩をすくめると、父上は「それもそうだな」と諦めたように苦笑した。

ただ、その笑みの奥には、いつも消えない疲労の色があった。


その日の午後。


重臣たちが集まった非公式の席で、私は少し離れた場所に座って帳簿の確認をしていた。

父上の仕事を学ぶため、こういう場にはなるべく同席しろと言われている。


正直、十二歳児が聞いて楽しい話なんてほとんどない。


税。訴訟。街道。徴税。土地争い。

聞いているだけで眠くなる。


それでも、父上の横で何年も聞いているうちに、少しずつ意味が分かるようにはなってきた。


そんな中。

老騎士の一人が、妙に言いにくそうな顔で口を開いた。


「……公爵閣下。差し出がましい物言いとは存じますが」


父上が視線を上げる。


「なんだ」


「閣下も、まだお若い。再び良き家柄より妃を迎え、

新たな男子をお望みになるお考えはございませぬか」


私のペン先が止まった。

父上は、しばらく黙っていた。


(ああ……そりゃそうだよね)


前世の大人としての自分が、すぐに意味を理解する。


私という長女がいる。

すでに後継者教育も受けている。


”でも、女だ”。


この時代なら、男の跡継ぎがいた方が何かと話が早い。


誰も「女にこの広大な土地を任せて大丈夫なのか」なんて顔をしなくて済むし、

婚姻目当てで寄ってくる男だって多少は減る。


父上だって、まだ三十代半ば。

再婚して息子を望むという話そのものは、政治的にはごく普通の発想なのだろう。


一瞬だけ。

私の頭に、とても俗っぽい考えがよぎった。


(……もし新しいお母さんが来て、弟ができたら)


もしかして。

私、この後継者ブラック職から解放される?


……と、思った次の瞬間。

別の感情が一気に湧き上がった。


(いや待て待て待て! 私、ここまで何年勉強したと思ってんの!?)


税制。

法律。

ラテン語。

家臣の顔と名前。

領地の境界。

外交。


全部叩き込まれてきた。


それなのに今さら、


『はい、男の子が生まれたのでアリエノールちゃんはお役御免です。

適当にいいところへお嫁に行ってね^^』


とか言われたら、それはそれで納得いかない。

自分でも面倒くさい感情だと思う。


楽になりたい。

でも、ここまでやったものを全部取り上げられるのは嫌。


人間、勝手なものである。


私が一人でそんなことを考えている間に、父上は静かに首を横に振った。


「……その話は、今すべきことではない」


老騎士が口を開きかける。

しかし父上は、手を上げて制した。


「再婚相手を探し、婚姻を結び、子が生まれ、その子が無事に育つまで何年かかる」


誰も答えない。


「男児が生まれる保証もない。生まれても、成人まで育つ保証もない」


その言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。

弟のことを思い出したからだ。


元気だった。

走っていた。

笑っていた。


でも………

死んだ。


父上も、きっと同じものを思い出していたのだろう。

顔には出さなかったけれど。


「今、ここにいる後継者を放って、存在するかどうかも分からぬ未来の男子に

すべてを賭けるつもりはない」


その言葉を聞いて。

なんとなく胸の奥が少しだけ熱くなった。


私は黙って帳簿へ視線を落とした。


その日の夜。

昼間あれだけ馬で駆け回っていたペトロニーユは、夕食を終えるなり泥のように眠った。


私も部屋へ戻る途中だったのだけれど

執務室の扉が、少しだけ開いているのに気づいて足を止めた。


中では父上が一人。

蝋燭の明かりの下で、大きな地図を見つめていた。


アキテーヌ。


でかい。

何度見ても、でかい。


十二歳の私が継ぐには、どう考えてもでかすぎる。


父上の横顔は昼間よりもずっと険しかった。


机の上には、いくつもの書状。

そのうち何通かには、北へ向かう使者が持っていくための印が用意されていた。


私は声をかけようか迷った。


その時、父上が小さく呟いた。


「……再婚だけに賭けるわけにはいかんな」


思わず足が止まる。


父上の視線が地図の上をゆっくり北へ動いた。


パリ、フランス王。


この数年、父上が以前より頻繁に使者を送るようになった相手。


「陛下との関係は、今のうちにもう少し固めておくべきか……」


その言葉の意味を。

私はまだ、全部は理解していなかった。


ただ

父上が何かを心配していることだけは分かった。


父上の授業で、何度も聞かされてきた話がある。

大きな土地を持つ若い女は、それだけで獲物になる。


婚姻を口実に。

あるいは力ずくで。


本人の意思なんてお構いなしに、土地ごと手に入れようとする男はいる。

父上はきっとそんな未来を恐れているのだ。


けれど。


その時の私はまだそれがどれほど現実的で、切実な恐れなのかまでは分かっていなかった。


翌朝。

青空の下で、北へ向かう使者が出立する準備をしていた。


私は執務室へ戻ってきた父上を捕まえた。


「父上。また北にお手紙?」


「ああ」


「最近、多くない? パリの王様、そんなにマメな人なの?」


からかうように首を傾げる。

父上は一瞬だけ私を見つめ、それからふっと目元を緩めた。


大きな手が、私の頭にぽんと乗る。


「親というものはな。子が思っているより、ずっと心配性なのだ」


「……なにそれ」


「お前にはまだ分からんよ」


「中身だけなら父上とそう変わらないんですけど」


とは、もちろん言えない。


その手の温もりが、なぜか少しくすぐったかった。


「姉上ー! 早く! 馬出そう!」


中庭から、ペトロニーユのけたたましい声が響く。

私は思わず笑った。


「はいはい、今行く! 勝手に走り出すなよ!」


父上の手からするりと抜け、私は中庭へ向かって駆け出した。


振り返りもしなかった。


その時、父上がどんな顔で私たち姉妹の背中を見送っていたのか。

十二歳の私は、まだ知らなかった。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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