第21話:こんなはずじゃなかったんだが?
頑張れ8点ちゃん( ˘ω˘ )
母上は、ギョームのあとを追うように逝った。
そんな言い方をすると、まるで詩人が歌う悲恋の物語みたいだけれど。
現実はもっと泥臭くて、救いようがなくて、酷かった。
弟を失って泣く暇もないまま、私は今度は母上の寝室の前に立っていた。
部屋の中には、薬草と汗と、熱のこもった重たい空気が満ちていた。
医師は何度も母上の額や胸に触れ、侍女たちは水を運び、司祭は低い声で祈り続けている。
誰も何もしていないわけじゃない。
みんな、できることをやっていた。
それでも。
苦しげだった母上の呼吸は少しずつ弱くなり、やがて完全に途切れた。
医師が目を伏せた。
侍女が泣き崩れた。
司祭の祈りだけが、そのまま部屋の中に残った。
私は、未来から転生してきたはずだった。
世界史は八点だったけれど、それでも現代日本という、少なくとも今ここよりずっと安全で、
清潔で、医療の整った場所で二十八年も生きていた。
なのに。
弟も、母上も。
目の前から、あっけなく消えた。
止められなかった。
もし私が医者だったら。
看護師だったら。
薬剤師だったら。
もっと何か知っていたら。
病気の見分け方を知っていたら。
薬の作り方を知っていたら。
点滴の仕組みを知っていたら。
どちらか一人くらい、助けられたんじゃないのか。
(……理系って、なんだよ)
古典が嫌で、消去法みたいに選んだ理系。
オームの法則と化学式を紙の上で転がして、便利な機械や薬を、
誰かが作ってくれたものとして使っていただけの自分。
未来から来た。
だから何かできると思っていた。
でも実際の私は。
未来の文明を作れる人間じゃない。
『ただ、その恩恵を受けていただけの人間だった』
その事実が、今までで一番痛かった。
葬儀の煙が、アキテーヌの鉛色の空へ消えていった。
祖父が死んだ。
弟が死んだ。
母上が死んだ。
ほんの少し前まで、私の人生設計は完璧だったはずなのに。
弟が継ぐ。
私は気楽な公女様。
安泰じゃん^^
そんなことを、本気で考えていた。
それが、たった数日のうちに全部なくなった。
弟はいない。
母上もいない。
城の家臣たちが、私を見る。
騎士たちが、私を見る。
父上も私を見る。
そして、あの執務室で見た。
フランス王本人の土地より広そうな、クソデカアキテーヌまで。
全部こっちを向いている気がした。
史実通り?
運命の筋書き?
知るか、そんなもの。
世界史八点の私にとっては、ただの巨大な玉突き事故だ。
その日の夕方。
人気のない執務室へ呼ばれた。
父上は窓の前に立ち、外を見ていた。
振り返った顔は、数日の間に十歳も老けたように見えた。
無精髭が伸び、目の下には濃い影が落ちている。
それでも父上は、アキテーヌ公だった。
息子を亡くしても、妻を亡くしても。
泣いて引きこもることは許されない。
「アリエノール」
名前を呼ばれた。
声はひどく掠れていた。
「……お前しか、いない」
「…………は?」
思わず素の声が漏れた。
待って、整理しよう。
弟が死んだ。
男の後継者はいない。
妹のペトロニーユはいる。
でも長女は私だ。
父上の次は。
「……私?」
父上は何も言わなかった。
その沈黙だけで十分だった。
(こんなはずじゃ、なかったんだが??)
頭の中で非常ベルが鳴った。
いやいやいやいや。
無理だろあんな広い土地。
何万人いるのかも分からない領民。
道路。橋。税。商人。騎士。
教会。裁判。作物。物流。
その全部を私が?
前世で任された大きな仕事なんて、せいぜいExcelの売上管理表くらいなんですけど!?
逃げたい。
本気で逃げたい。
「私には無理です。どっかの偉いおじさんを養子にしてください」
と叫んで、部屋へ引きこもりたい。
でもその時、ふいに思い出した。
夕暮れの丘の上。
銀杯を掲げていた、おじいちゃん。
『この土地の風はな、どこよりも自由で甘い』
そして。
泥だらけの畑で、農夫の話を聞いていた父上。
『広いということは、それだけ背負うものも多い』
『この土が、我らの命だ』
二人ともやり方は全然違った。
祖父は、歌って、笑って、喧嘩して。
父上は、数字と書類と現実に追われながら。
それでも同じものを守ろうとしていた。
この土地を。
この土地で生きる人たちを。
私はまだ、全部を知らない。
アキテーヌのことを。
川の名前も。
町の名前も。
人の暮らしも。
知らないことだらけだ。
「私のアキテーヌ」なんて、胸を張って言えるほどのものじゃない。
でも、祖父と父上があれだけ必死に守ってきたものを。
私の代で
「知らないから」
「無理だから」
それだけで放り出すのは嫌だった。
無理だと思う。
怖い。
逃げたい。
それでも
ここで背中を向けるのだけは、もっと嫌だった。
私は小さな両手を、ぎゅっと握った。
そして。
やつれ果てた父上の顔を見上げる。
「……わかったよ、父上」
声は少し震えていた。
覚悟なんてまだ全然できていない。
それでも。
その日私は初めて。
アキテーヌから逃げないと決めた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




