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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第20話:朝は来た。でも、ギョームは来なかった

(´・ω:;.:...

朝は来た。

冷たい光が、城の細い窓から差し込んでいた。


でも、ギョームは走ってこなかった。


パタパタという不器用な足音も、何かを倒して侍女に叱られる声も、廊下のどこからも聞こえない。


私はベッドから下りて、寝室の扉を開けた。


まだ寝ているだけだ。

熱が上がりすぎて、体力を使い果たして、ぐっすり眠っているに違いない。

目が覚めたら喉が渇いているはずだ。薄めた蜂蜜水でも持っていってやろう。


そう思いながら歩き出した私の足は、弟の部屋の前でぴたりと止まった。


扉が開け放たれていた。

昨夜まで慌ただしく出入りしていた侍女たちは、部屋の壁際に並び、誰も何も言わずに頭を垂れている。


静かだった。

あまりにも。


部屋の中央、小さな寝台のそばに父上がいた。

鎧も上着も脱ぎ捨てたまま、乱れたチュニック姿で床に膝をつき、毛布の上に額を押し当てている。


その大きな背中が、小さく震えていた。


声は聞こえない。

ただ、震えている。


「……父上?」


恐る恐る呼んだ。


父上は振り向かなかった。

代わりに、近くにいた年配の侍女が顔を上げた。目は真っ赤で、頬には涙の跡が残っている。


「アリエノール様……」


侍女は私のところへ駆け寄り、その前にしゃがみ込んだ。


「今は、あちらへ……」


「……寝てるの?」


侍女の顔が歪んだ。


「アリエノール様……」


「寝てるだけでしょ?」


自分でも分かっていた。


何かがおかしい。

分かっていたけれど。


それでも。


「起こさないから。ちょっと顔を見るだけだから」


私は侍女の手をすり抜けて、部屋の中へ入った。


寝台の上。

毛布から、小さな手が出ていた。


その手はもう赤くなかった。


白い。

不自然なくらい白くて。


動かない。


「……ギョーム?」


そっと触れた。


冷たかった。

昨日まで、あんなに熱かったのに。


私のスカートをちぎれそうな勢いで握っていた指が。

赤い花を差し出してきた手が。

泥だらけになって、カエルを掴んでいた手が。

もう何も握らない。


「……ギョーム」


もう一度、呼んだ。

返事はなかった。


嘘だろ。


昨日までいたじゃん。

走ってたじゃん。

笑ってたじゃん。


「ねーたま」って、うるさいくらい呼んでたじゃん。


なんで。


なんで、こんなに急なんだよ。


熱が出ただけだったじゃないか。

子供が病気になっただけだったじゃないか。


二十一世紀なら、


小児科へ連れていく。

検査する。

点滴する。

薬を使う。

呼吸が苦しければ、何かできたかもしれない。

何の病気だったのかも分からないまま、ただ熱に焼かれて、こんなふうに冷たくなるなんて。


そんなのおかしいだろ。


「おい……」


声がうまく出なかった。


「起きろよ」


喉が詰まる。


「もう一回、ねーたまって呼べよ……」


前世では二十八歳まで生きた。

それなりに色々なものを見てきた。

死というものだって、知らないわけじゃない。


でも、

目の前のこの小さな冷たさを前にしたら。

何の知識も年齢も未来から来たなんていう事実も。


”何一つ役に立たなかった”


私はただ。

弟を失った子供だった。


どれくらい、そこに立っていたのか分からない。


やがて。

父上が、ゆっくりと顔を上げた。


無精髭が伸びていた。


目は赤く腫れ、頬はひどくやつれている。

その目が、まっすぐ私を見た。


私は何も言えなかった。

父上も何も言わなかった。


ただその視線が今までとは少し違う気がした。


その時、扉のそばにいた家臣の一人と目が合った。


年配の男だった。


私と目が合った瞬間、彼は一度だけ深く息を吸い。

ゆっくりと頭を下げた。


いつもの公女に対する礼ではなかった。


もっと深く。

もっと重い。


まるで、

何かを託すようなそんな礼だった。


――あ。


背筋を、冷たいものが走った。


待って。

弟がいないってことは。


跡継ぎの男の子が。

この世界からいなくなったってことは。


あの広すぎるアキテーヌは。


「…………」


息が止まりそうになった。


でも。


私は奥歯を噛み締めた。


違う

そんなこと今はどうでもいい。


政治とか。

跡継ぎとか。

誰が継ぐとか。


そんなこと知るか。


ギョームが死んだんだ。


弟が。

私の弟が。


それだけで頭の中は、いっぱいだった。


それなのに。

もう一つずっと引っかかっていることがある。


「……母上は?」


自分でも驚くほど、掠れた声が出た。


父上を見つめる。


「母上は……母上は、どこにいるの……?」


父上の顔が、わずかに歪んだ。


その瞬間。


私は、

聞かなければよかったと初めて思った。



※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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