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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第19話:ギョームが走ってこない

(´・ω・`)

最初に寝込んだのは、母上だった。


別に、珍しいことじゃないと思った。

季節の変わり目だったし、ここには暖房の効いた部屋もなければ、コンビニもドラッグストアもない。

風邪を引いたところで不思議じゃない。


前世だって、冬になれば会社のフロアのあちこちで咳が聞こえていた。

誰かが休めば「また風邪か」で終わる。そのくらいのことだと思っていた。


「アリエノール様。今日は母上のお部屋へ入ってはいけませんよ」


侍女にそう言われ、私は母上の寝室の前で足を止めた。


「どうして?」


「少し、お熱がおありなのです。お休みになった方がよろしいでしょう」


「ふうん」


それだけ聞いて、私は素直に引き下がった。


だって昨日まで普通だったのだ。

窓辺で刺繍をしていた。

私が通りかかると手を止めて、笑ってくれた。

ペトロニーユが何かやらかして、困ったように眉を下げていた。


少し熱が出たくらいで、どうにかなるなんて思わない。


温かいものを食べて。

よく寝て。

数日もすれば起きてくる。


そう思っていた。


それから二日か、三日ほど経った頃。

今度はギョームが熱を出した。


「あー……うつったか」


聞いた時も、最初に出た感想はそれだった。


子供なんて、すぐ風邪をもらう。

前世の甥っ子だって、保育園へ行き始めた頃はしょっちゅう熱を出していた。

昨日まで元気だったのに、夜になったら突然三十九度。親は大慌て。

でも翌々日にはケロッとして走っている。


そんなものだ。


ギョームだって同じだろう。

そう思った。


翌朝。

廊下へ出ても、ギョームが来なかった。


昼になっても来なかった。

午後になっても。

走ってこない。

泥だらけの靴で床を汚しながら。

どこから捕まえてきたのか分からないカエルを両手に乗せながら。


「ねーたま! みて!」


と叫びながら私のところへ来ない。


最初は静かでいいと思った。

本当にほんの少しだけ。


「あいつがいないと静かだな」


なんて思った。

でも静かすぎた。


廊下を歩いていても、角の向こうから足音がしない。

階段の手すりに登って侍女に怒鳴られている声も聞こえない。

庭を覗いても、泥だらけの小さな背中がない。


いつもなら、うるさい。

邪魔。危ない。やめろ。

そればかりなのに。


いなくなると妙に広い。


石造りの廊下が。

庭が。

館そのものが。

急に広くなったように感じた。


その時。

ふと、祖父が死んだ朝のことを思い出した。


あの日は。

扉が開かなかった。


いつもなら勝手に入ってきて、私を連れ出していく人が。

あの日は、来なかった。


そして今。

ギョームが走ってこない。


「……やめよ」


私は小さく呟いた。


勝手に繋げるな。

縁起でもない。


ただの風邪だ。

子供の発熱なんて珍しくない。

私は六歳でも中身は二十八歳だ。


落ち着け。

妙な想像で勝手に怖がるな。


そう自分に言い聞かせながら、ギョームの部屋へ向かった。


寝室の前には、いつもより人が多かった。

侍女たちが桶を抱えて出入りしている。


湯気の立つ水。

濡らした布。

薬草らしい、青臭くて苦い匂い。


一人の侍女を捕まえて、私は聞いた。


「あのね。ちゃんと、お水飲ませてる?」


「はい」


「一気にじゃなくて、少しずつ。スープでもいいから」


「はい、アリエノール様」


「汗かいたら拭いて。服も濡れたままにしないで。熱が高いなら、濡らした布を――」


そこまで言って私は止まった。


侍女の顔を見たからだ。


目が赤かった。

泣いたあとみたいに。


「……どうしたの?」


侍女は一瞬、答えなかった。


「医師様が、先ほどから診てくださっています」


「お医者さん?」


「はい。薬も飲ませております。ですが……」


ですが。


嫌な言葉だ。


「司祭様もいらしております」


祈り。


その瞬間

胸の奥に、冷たいものが落ちた。


「……祈りじゃなくて」


思わず口から出た。


侍女が目を見開く。

私は慌てて口を閉じた。


違う。


分かってる。

この人たちだって、祈っているだけじゃない。


医師を呼んでいる。

薬草を煎じている。

身体を拭いている。

水を飲ませている。

今、できることは全部やっている。


でも、


現代なら病院へ連れていく。

熱を測る。血液を調べる。

胸の音を聞く。

必要ならレントゲンを撮る。

酸素を使う。

点滴をする。

感染症なら、原因を探す。

薬が効く病気なら、薬を使う。


少なくとも。


「何なのか分からないまま祈るしかない」


ではない。


私は未来から来た。

でも薬の作り方なんて知らない。


点滴も作れない。

酸素ボンベもない。

聴診器すら作れない。


知っている。


現代なら助かるかもしれない。


それだけ。

それだけしか知らない。


部屋の奥から。


ゼー。


ゼー。


という音がした。


私は顔を上げた。

誰かが苦しそうに呼吸している。


小さくて。

速くて。

聞いているだけで胸が詰まるような音。


「……ギョーム?」


扉の隙間へ近づいた。

侍女に止められなかったので、ほんの少しだけ中を覗く。


寝台の上に弟がいた。


頬が赤い。

赤すぎる。

髪は汗で額に張りつき

いつも泥だらけで走り回っていた脚は、布の下で動かない。

小さな胸だけがせわしなく上下している。


「ギョーム」


呼んだ。


反応しない。


「ギョーム?」


もう一度。

少し大きな声で。

それでもこちらを見ない。


喉の奥が急に乾いた。


昨日まで走っていた。

この間赤い花をくれた。

潰れた花を握って。

得意そうな顔をして。


「ねーたまにあげる!」


って膝に飛び込んできた。


そのあの子が目の前にいるのに。

別人みたいだった。


「……だいじょうぶ」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


ギョームに。

侍女に。

それとも私自身に。


「だいじょうぶだよ」


子供は熱を出す。


三十九度だって。

四十度だって。

そこから治る。


前世で何度も聞いた。

子供は急に悪くなるけど、急に良くなることもある。

明日になれば熱が下がる。

明日になればお腹が空いたって言う。

明日になれば私を見る。


明日になればまた。


「ねーたま」


って呼ぶ。


大丈夫。

大丈夫。


だって。

この間まで元気だったんだから。


そんな簡単に。

人間って死なないよね?


私は廊下の壁に背中を預けた。


冷たい石の感触が、服越しに伝わってくる。

部屋の中では医師が何かを指示している。


侍女が水を運ぶ。

誰かが祈りの言葉を唱えている。


私は何もできない。


ただ両手を強く握る。

神様なんて前世では一度も本気で信じたことなんかなかった。


なのに。

こんな時だけ都合よくお願いする。


お願い。


明日の朝。

またあの足音を聞かせて。


廊下の向こうから

うるさいくらいに走ってきて。


「ねーたま!」


って。


お願いだから。

もう一度だけそう呼んで。



※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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