第18話:今のところは、それでいい
「今は」ね^^
ここまで来て、ようやく分かったことがある。
ここは、たぶん十二世紀。
たぶん、フランスのあたり。
でも、私の知っているフランスとは、かなり違う。
お洒落なカフェもなければ、エッフェル塔もベルサイユ宮殿もない。
フランス王の土地は北の方にあって、うちは一応その臣下らしい。
なのに、地図を見れば臣下であるはずのアキテーヌの方がやたらめったら広い。
力関係どうなってんの?
と何度思っても、どうやらこの時代はそういうものらしい。
そして今のところ、目立った戦争もない。
父上は毎日のように、道路の修繕だの、通行税の取り決めだの、
領民同士のいざこざの裁判だのに追われている。
今日も執務室で羊皮紙の束と睨み合いながら、眉間に深い皺を刻んでいた。
胃、大丈夫かな。
妹のペトロニーユは元気だ。
朝から廊下を走り回って侍女に怒られ、怒られたそばから今度は庭へ脱走する。
弟のギョームも元気だ。
今日も服を泥だらけにして、どこから捕まえてきたのか分からないカエルを両手に乗せ、
「ねーたま! みて!」
と満面の笑みで押しつけてくる。
見たくない。
近づけるな。
そして私も。
風邪ひとつ引かず、それなりにすくすく育っている。
そんな毎日の中で。
私はもう、未来知識で世界を変えてやろうなんて、これっぽっちも思わなくなっていた。
石鹸はあった。
車は作れない。
電気は遠すぎる。
紙だってすでに存在していて、羊皮紙には羊皮紙なりに使われ続けている理由があった。
農業に至っては、泥にまみれた農民たちが、その土地に合ったやり方を
私なんかよりずっとよく知っていた。
知恵熱を出して「エレキテル!」とか考えていた頃の自分を思い返すと、
穴があったらピレネー山脈の奥底まで潜りたい。
未来から来た。
だから何でも知っている。
そんなわけがなかった。
私は未来の文明を知っていたんじゃない。
未来の文明を、ただ使って暮らしていただけだ。
だったら。
分からないことを、分かったふりして弄らない。
知らないなら、まず知る。それでいい。
ここは十二世紀らしい。
これから先、この時代がどう転がっていくのか、
世界史八点の頭では、さっぱり分からない。
自分が何歳まで生きるのか。
どこへ嫁ぐのか。
誰と結婚するのか。
それとも、運よくしばらく結婚を急かされずに済むのか。
何一つ分からない。
でも、父上は今日も忙しそうに羊皮紙と睨み合っていて。
妹は相変わらず甲高い声を上げて走り回っていて。
弟は泥だらけの手で、私のスカートを引っ張りながら笑っている。
中世の薄暗い回廊に、やわらかな夕方の光が差し込んでいた。
窓の向こうから吹き込む風には、熟した葡萄と乾いた草の、あの甘い匂いが混ざっている。
おじいちゃんが好きだった風。
いつの間にか私も、この匂いを知っている。
この風が吹くと、帰ってきたような気がする。
「ねーたま!」
足元から声がした。
見ると、ギョームがこちらへ手を伸ばしていた。
泥だらけ。
ほんとに泥だらけ。
「……また汚したの?」
「えへへ」
反省ゼロ。
私はため息をついた。
そして、その小さな手を取った。
まあ。
今のところは、それでいい。
先のことなんて、何も分からない。
平穏がずっと続く保証なんて、どこにもない。
それでも。
父上がいて、母上もいて、妹がいて、弟がいる。
この風が吹いている。
今はそれで十分だった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




