第17話:数字だけ! 数字だけください!!
日本は白河上皇や鳥羽上皇による院政が行われていた平安時代後期
らしいですよ!8点ちゃん!
弟のギョーム――またギョーム――が生まれてから、あっという間に数年が過ぎた。
赤ん坊だった弟はよちよち歩きを卒業し、今では小走りを覚え、
拙い言葉でギャーギャー喚き散らす元気な怪獣へと進化を遂げている。
その上には妹のペトロニーユもいる。
父上は相変わらず眉間に深い皺を刻みながら、執務室と所領の間を行ったり来たりしているけれど、
嵐のようなおじいちゃんがいなくなったあとの館には、
穏やかで、それなりに騒がしい日常がすっかり定着していた。
そして私は。
気づけば、六歳を過ぎていた。
「ギョーム! そこ登るな! 階段の手すりは滑り台じゃない!」
「ねーたま! みて! たかい!」
「見てる場合か! 落ちる! 今すぐ降りろ!」
石造りの廊下をバタバタ走り、危なっかしい弟の襟首をむんずと掴んで引きずり下ろす。
足元では、妹のペトロニーユが「あははは! こっちーー!!!」と、
笑いながら私のスカートを引っ張っている。
……すっかり姉ちゃんが板についてしまった。
前世のアラサー独身OLはどこへ行った。
今や私の主な業務は、三きょうだいの長女として弟妹の生命維持管理を行うことである。
弟は元気。
妹も元気。
父上も胃を痛めながら元気。
私は跡継ぎの重圧から解放され、将来は安全圏でぬくぬく暮らす予定。
完全に人生イージーモード。
安泰の極みである。
――だがしかし。
私の脳内Googleマップと脳内年表は、相変わらず電波圏外のままだった。
「で、結局ここ西暦何年なんだよ」
庭のベンチに腰掛け、日向ぼっこをしながら天を仰ぐ。
弟を追いかけ回す日々の合間にも、疑問は尽きない。
フランス王って誰よ。
ギョーム縛りみたいに、フランス王も代々ルイ縛りとかあるの?
ローマ帝国は?
さすがにもう滅びてるよね?
テルマエ・ロマエみたいな立派なお風呂はどこにもないし。
ベルサイユ宮殿はまだ?
鏡の間とオスカル様は?
イギリスは?
海を挟んだ隣のイギリスは、今どうなってんの?
私、イギリス史なんてエリザベス女王くらいしか知らんて。
おじいちゃんが昔言ってた「聖地」って何?
アニメの舞台になった岐阜とか埼玉の神社に行くやつ?
……絶対違う。
そして何より。
「いま日本、何時代なの!?」
平安?鎌倉?
源平合戦はもう始まってる?
平清盛って生きてる?
源頼朝ってまだ子供?
ていうか。
「頼むから誰か年号を言え!!」
そして、さらに重要な問題。
「大体、私自身は何歳まで生きて、何で死ぬんだよ!!」
世界史八点の脳みそは、自分の寿命すら教えてくれない。
あまりにも気になったので、少し前。
私は城に出入りしていた教会関係者………
いかにもインテリそうな司祭様をつかまえて聞いてみたのだ。
「あのね。いま、なんねん?」
子供らしい、実に素朴な質問である。
司祭様は目を細めた。
「おお、幼き公女様よ。時の流れに関心をお持ちとは、まことに聡明であられますな。
我らが主イエス・キリストの尊き御降誕より数え――」
来た。
長いやつだ。
「――千百二十……」
待って。
今、数字言った?
「……え?」
私は目を見開いた。
司祭様は気にも留めず、ありがたい話を続けている。
「そして聖なる教会の御導きのもと――」
「まって!」
思わず袖を掴んだ。
「いまの!」
「はい?」
「せんひゃく、なんじゅう!?」
「……?」
「すうじ! すうじだけ!」
司祭様は、完全に意味が分からないという顔をしていた。
こっちは必死である。
長い祈りも。
聖人の名前も。
教皇様のありがたい話も。
今はいらない。
数字!数字だけください!!
何度か聞き直して。
どうにか理解した。
どうやら今は、千百二十何年か。
つまり。
”十二世紀前半”
らしい。
「……じゅうにせいき」
口に出してみる。
十二世紀。
数字にした瞬間。
急に現実味が増した。
やっぱりめちゃくちゃ昔じゃん。
日本なら。
平安の終わり頃……だよね?
たぶん。
知らんけど。
私はベンチの上で頭を抱えた。
十二世紀。
十二世紀って何があった?
…………。
何も出てこない。
世界史八点、強い。
「ねーたまー!」
不毛な思考をぶった切るように、草むらの向こうから声が飛んできた。
顔を上げると
ギョームが、泥だらけになってこちらへ走ってくる。
「おはな! あかいおはな!」
小さな手には、根元から強引に引っこ抜かれた赤い野花が握られていた。
「これ、ねーたまにあげる!」
「……服、泥だらけじゃん。また母上に怒られるよ」
ため息をつきながら、それでも差し出された花を受け取る。
茎はぐちゃっと潰れているし、花びらも少し千切れていた。
でも。
弟の顔は、これ以上ないくらい誇らしげだった。
「ありがと」
「えへへ!」
そのままギョームは私の膝へ飛び込んできた。
ちっちゃくて。
あったかくて。
少し汗臭くて。
どこか甘い土の匂いがする。
最初はただの損得勘定だった。
この子が男の子だから。
この子が、私の代わりにあのクソデカアキテーヌを背負ってくれる跡継ぎだから。
だから大事にしよう。
可愛がっておこう。
そんな打算が、たしかにあった。
でも、
私の膝に頭を預けて、くしゃくしゃの笑顔でこちらを見上げてくる弟を見ていると。
そんな計算は、もうどうでもよくなっていた。
泥のついた頬を、指先でそっと拭ってやる。
「この子がアキテーヌを継ぐから安心、じゃなくてさ」
「ん?」
「なんでもない」
私は笑った。
『この子が元気ならもう、それでいい』
歴史の年号が分からなくても。
自分が何歳まで生きるか知らなくても。
この子が明日も明後日も、こうして笑っていれば。
今は、それで十分だった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




