第2話:おじいちゃんが濃すぎる
ギョーム9世、中世ヨーロッパで最初の「トルバドゥール(吟遊詩人)」と言われてますね。この人もかなり面白いです。
二歳児のちっこい両手で顔を覆いながら、私の頭の中では緊急警報が鳴り響いていた。
高校時代、私が選んだのは化学と物理と地理だ。
理系に進んだ私にとって、世界史の授業なんて「午後の五時間目に睡魔と戦いながら、
長ったらしいカタカナをノートに写経する苦行」以外の何物でもなかった。
覚えていること?
ナポレオンが「我輩の辞書に不可能はない」と言ったことと、ギロチン。
以上。
アキテーヌ。
ポワティエ。
ギョーム。
アリエノール。
……どれ一つとして、私のスカスカな脳内インデックスに引っかかってこない。
かすりもしない。
しばらくして、慌ただしい足音が廊下の向こうから近づいてきた。
重い扉が開き、さっきの侍女とは別の女性が入ってくる。
若い。
二十代前半くらいだろうか。
先ほどの侍女より明らかに上等な衣服を身につけていて、立ち居振る舞いも落ち着いている。
その後ろには、例の侍女が心配そうな顔でついてきていた。
「アリエノール」
女性は私の寝台のそばまで来ると、ほっと息を吐いた。
「目を覚ましたのね」
……誰だ。
私は黙って見上げる。
女性は少し眉を寄せた。
「まだ熱があるの?」
「……だれ?」
口に出した瞬間、また舌がもつれた。
女性の顔が強張る。
「まあ……私が分からないの?」
しまった。
たぶん、かなり近しい人だ。
母親?
乳母?
親戚?
知らん。
二十八歳の中身が入っているとはいえ、この身体の人間関係まで自動で
インストールされるわけではないらしい。
「まだ、ひどく混乱しておられるようです」
侍女がそう説明すると、女性は心配そうに私の額へ手を当てた。
ひんやりしていて気持ちいい。
そしてその手の温度が妙に生々しくて、逆に怖かった。
夢じゃない。
VRでもない。
少なくとも、私にはそう思えた。
「アリエノール・ダキテーヌともあろう者が、そんな弱気な顔をするものではありませんよ」
私は固まった。
……今。
なんて?
「ありえのーる……だきてーぬ?」
「ええ」
女性は不思議そうに頷いた。
「あなたはアキテーヌ公の姫君。ギョーム様の大切なお嬢様でしょう?」
アキテーヌ公女。
『アリエノール・ダキテーヌ』
私は瞬きをした。
公女。
公女ってことはお姫様みたいなものか?
いや、それより。
『アキテーヌ』
さっき、ここはポワティエって言ってた。
ポワティエ。
アキテーヌ。
アリエノール・ダキテーヌ。
……待て。
やっぱり、ここ。
マジもん?
ゲームの中じゃなくて?
どこだよ。
いつだよ。
ていうか、私は誰なんだよ。
知らねえよ。
知らねえって。
「あ”-----……」
「アリエノール?」
私は小さな両手で顔を覆った。
こんなことなら。
こんなことなら。
世界史ちゃんとやっとけばよかったよ……!
――ちなみに。
私はこの先、人生の節目節目で何度も、この言葉を反芻することになる。
「まあ、アリエノールったら。泣いているの? どこか痛むの?」
女性――のちに私の実母、アエノールだと判明する人が、困ったように私の背中を撫でた。
手のひらから伝わる体温が、やっぱりリアルすぎる。
胃が痛い。
二歳児の胃だけど。
「おくすり……にがい……」
とりあえず、舌足らずな幼児のふりをして誤魔化しておこう。
いや。
ふりも何も、本当に舌が回らないんだけど。
その時だった。
ズシ。
ズシ。
ズシ。
廊下の床板を派手に軋ませながら、誰かがこちらへ近づいてくる。
さっきの侍女とは比べものにならない。
足音だけでうるさい。
何だ。
重戦車でも来るのか。
「おい! アリエノールが目を覚ましたというのは本当か!」
バーン!
ノックもへったくれもなく、重い木の扉が蹴破らんばかりの勢いで開いた。
そこに立っていたのは、一言で言うと。
”暴力的な陽キャ”だった。
歳は五十代くらい。
白髪の混じった巻き毛に、立派すぎる髭。
大柄な身体に仕立てのよさそうな衣服をまとい、その上から深い赤の外套を引っかけている。
そして何より…
部屋に入ってきた瞬間、空気が変わった。
声がでかい。
足音がでかい。
存在感がでかい。
ついでに、少し酒臭い。
えっ、誰。
サンタクロースと暴走族の総長を足して、新宿歌舞伎町のドンをトッピングしたみたいな
おじさんが来たんだけど。
「お父様!」
母らしき女性が、額を押さえた。
「少しはお静かになさいませ! まだ熱が下がったばかりなのですよ!」
……お父様?
ってことは。
この人が私の祖父?
「何を言うか! 我が愛しの孫娘が死の淵から戻ってきたのだぞ! 顔を見に来て何が悪い!」
ドカドカと大股で寝台へ近づいてくる。
母は明らかに「また始まった」という顔をしていた。
なるほど。
この人、普段からこうなんだな。
そして豪快なおじいちゃんは、私の寝台まで来るなり、ためらいなく両手を伸ばした。
「ひゃっ!」
軽々と抱き上げられる。
高い!
怖い!
天井の梁が近い!
二歳児の視界にとっては、ほぼフリーフォールである。
「おお! 見ろ、この目を! しっかり開いておるではないか!」
おじいちゃんは私の顔を覗き込み、満足そうに笑った。
「やはり我が血を引く娘だ! 熱病ごときに負けるはずがなかろう! ガーッハッハッハ!」
耳元で笑うな。
鼓膜が死ぬ。
しかも次の瞬間、ジョリジョリの髭を頬に擦りつけてきた。
「いたっ……!」
痛い!
紙やすりか!
「お、おじい……ひげ、いたい……」
「おじい?」
彼は一瞬きょとんとしたあと、ますます豪快に笑った。
「ははあ! まだ頭がぼんやりしておるな! だがよい、声に張りがある!」
いや。
頭がぼんやりしているんじゃなくてあなたが誰か知らないだけです。
「今宵は宴だ!」
突然、おじいちゃんが宣言した。
「は?」
「吟遊詩人を呼べ! 酒を開けろ! 我が孫の快気を祝うぞ!」
待て待て待て。
二歳の孫が高熱から目を覚ました直後ですよね?
「それから、新しい愛の歌でも一曲作ってやろう!」
吟遊詩人?
愛の歌?
何で?
二歳の孫が生還した緊迫の現場で、真っ先にやることが宴会とラブソングの作詞なの?
神への感謝は?
さっき母親は祈ってたぞ?
「お父様……」
母が深いため息をつく。
その顔には、もはや怒りすらなかった。
完全に諦めている。
私はおじいちゃんの腕の中で、小さく息を吐いた。
アリエノール。
アキテーヌ。
ポワティエ。
ギョーム。
そして、宴会と愛の歌が大好きな、やたら濃い祖父。
分からないことは何一つ減っていない。
むしろ増えた。
ただ。
一つだけ、はっきりしたことがある。
(……この人、絶対まともじゃない)
二十八歳の社会人経験で培った危険察知アラームが、けたたましく鳴り響いていた。
そして私は、まだ知らない。
このやたら濃い祖父が
後世に名を残す、とんでもなく有名な人物であることを。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




