第180話:また僕たちをチェス盤に乗せる気ですね
今度はジェフリー
ルーアンの公爵宮殿、日当たりのいい一室。
つい先ほどまで「僕はもう布団から出ない」と誓っていたはずのジョンは、
届けられた父ヘンリー二世からの短い親書を握りしめ、青ざめた顔で叫んでいた。
「また僕!?」
手紙には、力強い父親の筆致でこう記されている。
『ポワトゥーの件は一度措く。だがお前の将来について、
私はすでに別の案を考えている。近々、ジェフリーともよく話しておけ』
ジョンは手紙を持ったまま固まった。
”別の案”
嫌な言葉だった。
ものすごく嫌な言葉だった。
前回も父親は「お前のためだ」と言った。
その結果、自分はリチャードとの話し合いのど真ん中へ座らされ、
本人が何度「僕、別に欲しくないです」と言っても、
将来の領地について勝手に話を進められた。
そして最後には、兄の領地から自分の収入を出すという案まで飛び出した。
ジョンは胃のあたりを押さえた。
「別の案って何だよ……」
考えれば考えるほど怖い。
一方。
その頃、ブルターニュのナントから所用でルーアンへ立ち寄っていた
ジェフリーの手元にも、似たような書状が届いていた。
『ジョンの今後の立場について、お前の意見も聞きたい。
二人でよく相談しておくように』
「…………」
ジェフリーは手紙をテーブルの上へ滑らせ、静かに額を押さえた。
「……また僕も?」
二人が顔を合わせるまで、それほど時間はかからなかった。
共通の不安を抱えた者同士、宮殿の奥まった一室で、
ほとんど示し合わせたように向かい合う。
「兄上!」
ジョンが手紙を握ったまま駆け寄った。
「父上が“別案”って言ってるんですけど!」
ジェフリーは即答した。
「嫌な言葉だね」
「ですよね!?」
ジョンは勢いよく頷いた。
「前回も『お前のためだ』って言われて、
気づいたらリチャード兄上との話し合いの真ん中に座らされてたんですよ!」
「うん」
「しかも僕、何度もいらないって言ったのに!」
「うん」
「それなのに今度は“別案”ですよ!?」
「……逃げたくなるね」
「やっぱり!?」
ジョンは両手で頭を抱えた。
「もう嫌ですよ。父上の『お前のためだ』って言葉の後には、
絶対何か面倒なものがついてくるんだ」
ジェフリーはぬるくなった白ワインへ手を伸ばした。
「まあ、父上なりに考えてるんだろうけどね」
「それは分かってます」
「分かってるから面倒なんだよ」
ジェフリーは杯を傾けながら、少しだけ目を細めた。
「父上は本気で、この家全体を立て直そうとしてる」
ジョンが黙る。
「アンリ兄上がいなくなった。リチャード兄上はポワトゥーを譲らない。
僕はブルターニュにいる。お前にはまだ大きな基盤がない」
「はい」
「だから父上は、全部を見て並べ直そうとしてるんだと思う」
「……チェスみたいに?」
「そんな感じ」
ジェフリーは肩をすくめた。
悪意があるわけではない。
むしろ逆だ。
父は本気で、自分が家全体を見ていると思っている。
誰をどこに置けば安定するか。
誰に何を与えれば均衡が取れるか。
誰と誰を組ませれば全体がうまく回るか。
そこまで考えるのは、王としては当然なのかもしれない。
ただ
「その“全体”の中で、僕たち一人ひとりの都合は、だいたい後回しになるんだよね」
ジェフリーが静かに言う。
ジョンは小さく頷いた。
「……分かります」
「でしょ?」
「父上の案って、いつも理屈は分かるんです」
「うん」
「でも、僕がその場所に立つと、すごく嫌なんです」
ジェフリーが少し笑った。
「それも分かる」
しばらく二人とも黙った。
ジョンは自分の手紙を見下ろす。
ジェフリーも、父親から届いた文面へ目を落とした。
まだ、具体的に何をさせられるのかは書いていない。
だからこそ怖い。
何が来るのか分からない状態で「考えておけ」と言われるのは、
案外落ち着かないものだった。
ジョンが恐る恐る口を開く。
「兄上」
「何?」
「父上、僕たちをまた別のマスに置こうとしてますよね」
「たぶんね」
「僕、もう駒になりたくないんですけど」
「僕も」
「兄上も?」
ジェフリーは少しだけ考えた。
「少なくとも、父上が勝手に決めた位置へ黙って置かれるのは嫌だね」
その言葉に、ジョンは少しだけ安心したような顔をした。
腹の内が読めない。
いつも何か考えている。
そんなふうに見える兄でも今この瞬間は、
自分と同じことを考えているらしい。
ジョンは少し迷ってから、尋ねた。
「……兄上は、何か欲しいですか?」
「何が?」
「領地とか。次の肩書とか。父上に頼んで、手に入れたいものって」
ジェフリーは杯を持ったまま、しばらく黙った。
それから、ごく普通の声で答えた。
「……今日は、平穏が欲しい」
ジョンは深く頷いた。
「僕もです」
その答えだけは二人とも、迷わなかった。
かつては父親の期待を気にし、
あるいは兄弟同士の駆け引きを楽しみ、
それぞれが、それぞれの場所を求めて動いていた。
今も、領地も地位も、必要ではある。
未来永劫、何も欲しくないわけではない。
ただ今日だけは。
父親が新しい配置図を広げて、自分たちの名前を好きな場所へ置き始める前に。
少しくらい自分たちの意思で、静かにしていたかった。
ルーアンの一室で
三男と末弟は、父親から届いた二通の手紙を前に並べたまま
しばらく、どちらからも次の話を切り出さなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




