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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第178話:各支社長が自立した件と、私の有休消化(釈放)いつですか問題

齢60で我に返る8点ちゃん。

オールド・サラム城塞の居室。


大陸から届いた三通の近況報告を机に並べ、

私は熱いハーブティーをすすりながら、それらをじっと見下ろしていた。


ポワティエのリチャードは、アキテーヌの備蓄や城の状態を確認しながら、

父親からの要求を突っぱねている。


ナントのジェフリーは、ブルターニュで関税や裁定や諸侯の揉め事を片づけ

ながら、「今度は父上ご自身で条件を用意してください」と使者役を拒否した。


ルーアンのジョンは、父親の「お前のためだ」という言葉を聞いたら、

まず疑うという妙に実践的な危機管理能力を身につけたらしい。


私は報告書を一枚持ち上げた。


「……ねえ、侍女長」


「はい」


「これさ」


「はい」


「ヘンリーは『息子たちが言うことを聞かん』って思ってるわけよね」


「そのように見受けられます」


「でも、よく考えたら違わない?」


侍女長が首を傾げる。


私は指を一本立てた。


「リチャードはアキテーヌを自分で回してる」


もう一本。


「ジェフリーもブルターニュで普通に仕事してる」


さらに一本。


「ジョンだって、まだ若いけど自分の意思くらいはある」


そこで、私は手を止めた。


「……あれ?」


侍女長も少し考える。


「どうかなさいましたか」


「みんな親離れしてない?」


「……あ」


侍女長が小さく声を漏らした。


私は勢いよく机を指差した。


「そうよ! ヘンリーはまだ『家全体の配置は自分が決める』って感覚

なんだろうけど、もう息子たちはそれぞれ自分の現場を持ってるじゃない!」


リチャードにはアキテーヌがある。

ジェフリーにはブルターニュがある。

ジョンだけはまだ立場が弱いけれど、それでも十六歳にもなれば、

何でも父親の言う通りに頷く子供ではない。


「これ、家族会議っていうより」


私は少し考えてから、前世の記憶に一番近い言葉を探した。


「ホールディングスの社長と、各地域支社長の経営会議じゃない?」


侍女長は当然、何を言われたのか分からない顔をした。


「ほーるでぃんぐす……?」


「あ、ごめん。そこはいい」


私は手を振った。


「つまり、もう全員『自分のところは自分で決めたい』って段階なのよ」


「なるほど」


「リチャードなんて完全に現場責任者でしょ。

ジェフリーも自分の領地の仕事を優先してるし」


少し間を置く。


「ジョンは……」


手紙を一枚見る。


『父上が「お前のためだ」と言ったら、まず警戒します』


「……生存戦略だけ妙に育ったわね」


侍女長の口元が少しだけ緩んだ。


私はハーブティーを一口すすった。


なんだかんだで全員、ちゃんと自分の頭で考えるようになっている。

それなら母親としては、少しくらい安心してもいいのかもしれない。


「まあ……あの子たちがそれぞれ自分でやっていけるなら」


私は少しだけ肩の力を抜いた。


「私がいちいち全部心配しなくても――」


そこでふと窓の外へ目を向けた。


灰色の空

石壁

狭い窓

いつもの部屋


「…………」


ハーブティーのカップを持ったまま、私は固まった。


「王妃殿下?」


「……待って」


「はい?」


「ちょっと待って」


自分の手を見る。

部屋を見る。

もう一度、窓を見る。


「……私」


嫌な予感がした。


「私、いつまでここにいるの?」


侍女長が目を瞬く。


「ここ、と申されますと」


「ここよ!」


私は両手を広げた。


「この生活!!」


「はあ」


「私、これいつ終わるの!?」


「それは……」


侍女長が言葉に詰まった。

それを見て、私の背筋が冷たくなる。


「待って待って待って」


カップを机へ置く。


「私、死ぬまでこのままとかじゃないわよね?」


「王妃殿下」


「いや、ほんとに!」


私は立ち上がった。


「息子たちはみんな自分の領地で仕事してる! 

ヘンリーは元気に大陸を走り回ってる! 

私だけずっとここで報告書読んでツッコミ入れてる!」


今まで家族の揉め事を追うので忙しかった。


誰が反乱した。

誰が死んだ。

誰が父親と揉めた。

誰が使者に出された。


そんなことばかり考えていた。


でも考えてみれば”私自身の人生は、一向に動いていない”。


「……私の人生、このままなの?」


急に怖くなった。


「やだやだやだ!!」


頭を抱える。


「教えてGoogle先生ェェェェッ!!」


背後で、侍女たちが静かに顔を見合わせた。


「……また始まりましたね」


「“ぐーぐる先生”とは、どちらのマギステルなのでしょう」


「以前、“ちゃっぴー”というお名前もお呼びになっておられましたよね」


「ええ」


「お二人いらっしゃるのでしょうか」


侍女長が落ち着いた声で答える。


「王妃殿下は昔から、我々には理解できないお名前を時折お呼びになります」


「東方の賢者でしょうか」


「その可能性も」


「違う!!」


私は勢いよく振り返った。


「どっちも人じゃない!!」


侍女たちが黙る。

一人が恐る恐る口を開いた。


「人ではない……?」


「そう!」


「では、精霊でしょうか」


「いや、そういうのでも……」


そこで言葉に詰まった。

Googleをどう説明する。

ChatGPTをどう説明する。

十二世紀の人間に。


無理だ。


「……もう」


私は頭を抱えた。


「精霊でいい」


「やはり」


「納得しないで!!」


侍女たちはまた顔を見合わせた。


「そういえば王妃様、以前“ネットがない”とも」


「“検索できない”とも仰っておられました」


「“充電がない”というお言葉も」


「何かの秘術でしょうか」


「違うわよォォォッ!!」


私は机に突っ伏した。


「ただの現代人の断末魔よ!!」


もちろん、そんな説明で通じるわけがない。

私はそのまま、必死に前世の記憶を掘り返した。


アリエノール・ダキテーヌ。

この先、どうなる。

いつ自由になる。

何歳まで生きる。


「…………」


何も出てこない。


「…………」


本当に何もない。


「……知らない」


侍女長がこちらを見る。

私は顔を上げた。


「私、この人のこと何も知らない」


「王妃殿下?」


「いや、違う、こっちの話」


そもそも。

前世でアリエノール・ダキテーヌなんて名前を聞いた記憶すらなかった。


最初に自分の名前を聞いた時だって。


アリエノール。

アリエル。

人魚姫?


その程度だった。


歴史上の人物だと分かってからも、

知っていることなどほとんど増えていない。


「リチャードだって」


私は指を折る。


「私にとっては息子よ」


それ以上でも、それ以下でもない。


ヘンリー二世?

ヘンリーなんて王様、世界史に山ほどいた気がする。


フィリップ?

知らん。


何世なのかも、今ここで聞かなければ分からない。


「……世界史八点」


思わず呟いた。


「本当に何の役にも立たない……!」


頭を抱える。


「せめて一個くらい覚えてなさいよ私!!」


侍女たちは、また何か始まったという顔で黙って見守っていた。


そこで、さらに嫌なことに気づいた。


「……待って」


私はゆっくり顔を上げる。


「ヘンリーって、私より若いじゃん」


侍女長が頷く。


「はい」


「十歳くらい?」


「おおよそ、そのくらいかと」


「…………」


私は青ざめた。


「じゃあ普通に考えたら」


嫌な想像が頭をよぎる。


「私の方が先に死ぬ可能性、高くない?」


侍女長が完全に答えに困った。


当然である。

そんなことを聞かれても困る。


「待って待って待って!!」


私はまた立ち上がった。


「じゃあ何!? 私、釈放される前に寿命くる可能性あるの!?」


「王妃殿下、落ち着かれませ」


「落ち着けるかァァァァッ!!」


私は頭を抱えて歩き回った。


「ヘンリーがいつ死ぬかも知らない!」


もちろん、夫の死を待っているわけではない。

待っているわけではないが。


もし。

仮に。

この状況が夫の判断で続いているのなら。


その夫が自分より十歳も若いという事実は

精神衛生上、非常によろしくなかった。


「お願いだからスマホ返して……」


私は弱々しく机へ突っ伏した。


「一回だけでいいから検索させて……」


「すまほ」


侍女の一人が小声で呟く。


「それは、ぐーぐる先生を呼び出す魔導具でしょうか」


「違う……」


私は顔を伏せたまま答えた。


「……いや、だいたい合ってるかもしれない」


「やはり」


「そこで納得しないでよ……」


息子たちは、それぞれの人生を歩き始めている。

父親の言う通りに動くだけの子供ではなくなった。


それは良いことだ。

とても良いことなのだが。


その事実に安心した途端。


私はようやく。

自分自身の人生が、いつ動き出すのかまったく分からないという問題に

気づいてしまった。


そして世界史八点の頭には

その答えを教えてくれる記憶など、一欠片も残っていなかった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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