第177話:三男の領地経営と、外の空気の変わり目
ジェフリーの考え
ブルターニュ公領、ナントの執務室。
窓の外には、ロワール川の鈍い水面が広がっていた。
三男ジェフリーは、机いっぱいに広げられた関税の記録や、
地元諸侯から上がってきた陳情書を、羽根ペンで淡々と仕分けしていた。
「この港湾税の件は、去年と同じ基準で処理して。
こっちの境界争いは前回の裁定を確認して、それでも揉めるなら当事者を呼ぶ」
「承知いたしました」
書記官が素早く書類をまとめて下がっていく。
家族の中では、皮肉屋だの腹の内が読めないだの散々な言われようをしているが、
自分の領地へ戻れば、ジェフリーは案外まじめに仕事をしていた。
派手に剣を振るうわけでもない。
父親のように怒鳴って周囲を押し切るわけでもない。
必要な書類を読み、金の流れを確認し、
地元の諸侯がどこまでなら従うのかを見極める。
面倒ではあるが。
領地経営というものは、大体そういう地味な仕事の積み重ねだった。
「……よし」
一つ片づけて、ぬるくなったワインへ手を伸ばす。
その時別の従者が、数通の書状を抱えて部屋へ入ってきた。
「殿下。ポワティエとパリ方面から、報告が届いております」
「また?」
ジェフリーは露骨に嫌そうな顔をした。
「どうせ親父とリチャード兄上が、まだ同じ話をしてるんでしょう」
「いえ。直接の話し合いはいったん終わったようでございます」
「へえ」
それだけ聞けば、少し安心できる。
だが、従者は続けた。
「その後、フランス王フィリップ陛下から、
リチャード殿下へ親書が届いたとのことです」
ジェフリーの手が止まった。
「……フィリップから?」
「はい」
差し出された報告を受け取る。
内容は短い。
フランス王は、リチャードが長くアキテーヌを治めてきたことを認め、
いずれ機会があれば直接話をしたいと伝えた。
それ以上のことは何も書かれていないらしい。
兵を貸すとも、
味方になるとも、
父親に逆らえとも、
何一つ。
「…………」
ジェフリーは報告書を机に置き、椅子の背へゆっくりともたれた。
「……あれ」
小さく呟く。
「フィリップと話が合うの、僕だけじゃなくなってきた?」
もちろん。
リチャードがフィリップと手を組んだわけではない。
そんな話ではない。
ただ以前なら、おそらくリチャードはフランス王から何を言われようが
鼻で笑って終わっていただろう。
今は違う。
少なくとも、手紙を読んだ。
返事も送ったらしい。
それだけだった。
それだけなのだが
ジェフリーには、妙に引っかかった。
「……空気、変わってきたな」
窓の外へ目を向ける。
これまではどれだけ揉めても、結局は家族の中の話だった。
父が怒る。
兄たちが反発する。
自分が面倒な使者役を押しつけられる。
母は遠くから呆れる。
ジョンは巻き込まれて困る。
それでも
全員の視線は、基本的には家の中へ向いていた。
だがリチャードが、外にいるフィリップへ返事をした。
ほんの一通。
ほんの短い返事。
それだけで。
家の中だけで完結していた話に、
外から別の人間が入り込める隙間ができたように見えた。
「殿下」
書記官が慎重に声をかける。
「何か問題が?」
「まだ、問題ってほどじゃないよ」
ジェフリーは指先で机を軽く叩いた。
「リチャード兄上がフィリップのところへ行くって話でもないし、
フィリップが兄上に何か約束したわけでもない」
「では」
「ただ」
少し考える。
「前なら、あの二人が直接話す未来なんて、そんなに現実的に見えなかった」
今は
”少なくともあり得なくはない”
その程度の変化だった。
だが政治というものは、案外そういう小さな変化から始まる。
「……まあ、僕には関係ないけど」
ジェフリーは報告書を脇へ押しやった。
「僕はここで仕事する」
「はい」
「関税も揉め事も山ほどあるし、
親父とリチャード兄上の喧嘩に毎回付き合ってたら領地が回らない」
「ごもっともでございます」
「でしょ?」
ジェフリーは満足そうに頷いた。
ようやく
自分は家族の揉め事から少し距離を置いて、自分の領地の仕事へ戻れる。
そう思った、その時だった。
「あの」
書記官が、もう一通の書状を差し出した。
ジェフリーは嫌な予感を覚えた。
封蝋を見る。
見慣れている。
非常に見慣れている。
できれば今日は見たくなかった。
「……それ、誰から?」
「ヘンリー陛下でございます」
ジェフリーは目を閉じた。
「読まなくても嫌なんだけど」
「ですが」
「分かってるよ。読んで」
書記官が封を開き、文面へ目を通す。
少しだけ表情が曇った。
ジェフリーはそれを見逃さなかった。
「何」
「その……」
「何て書いてあるの」
書記官は覚悟を決めたように読み上げた。
「『リチャードの様子を探れ。必要であれば、もう一度話をしてこい』と」
「…………」
ジェフリーは数秒間、完全に無表情になった。
それから深々と息を吐いた。
「……また僕?」
「殿下」
「前回、何も持たされずに行かされて、何も持ち帰れなかったよね?」
「はい」
「親父も知ってるよね?」
「おそらくは」
「なのにまた僕?」
「はい」
ジェフリーは額を押さえた。
「僕、ブルターニュの仕事してるんだけど」
「存じております」
「親父、忘れてない?」
「それは……」
書記官が答えに詰まる。
ジェフリーはしばらく考えた。
そして、机の上に積まれた書類を一枚持ち上げる。
「返事」
「はい」
「『領内の裁定と徴税の確認で手が離せません』」
「……それだけで?」
「あと」
ジェフリーは少し考えてから付け加えた。
「『リチャード兄上と話をするなら、
今度は父上ご自身で条件を用意してからお願いします』」
書記官が目を瞬いた。
「よろしいので?」
「いいよ」
ジェフリーは肩をすくめた。
「もう一回、何も持たされずに行って
『説得してこい』って言われるくらいなら、その方がまし」
「陛下がお怒りになるかもしれません」
「それはいつものことだろう」
即答だった。
ジェフリーは再び羽根ペンを取った。
家族の問題は、まだ終わっていない。
フィリップという外の視線も、少しずつ近づいている。
それでも今の自分には、自分の領地がある。
守るべき仕事がある。
だから、何でもかんでも家族会議の駒として動かされるつもりはなかった。
”少なくとも今日は”
ジェフリーはそう決めて、目の前の書類へ視線を戻した。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




