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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第174話:末っ子の怯え顔と、老いた覇王への警戒水準

リチャード側。

ポワティエ、大公宮殿の私室。

重い上着を脱ぎ、革の胴着一枚になったリチャードは、

冷水で顔を洗うと荒っぽく布で水滴を拭った。


父との話し合いは、結局ほとんど何も決まらなかった。

ヘンリー二世は、自分なりに譲歩したつもりだったのだろう。


ポワトゥーそのものは取り上げない。

その代わり、そこからジョンにも相応の収入を与えろ。


本人の頭の中では、確かに筋が通っている。


リチャードは領地を保てる。

ジョンにも将来の基盤ができる。

父親としては、双方に少しずつ譲らせたつもりなのだ。


ただし…

リチャードから見れば、負担を負うのは結局こちらだけだった。


「……くっ」


長机の端に腰を下ろし、杯へ酒を注いだところで、不意に笑いが漏れた。

近くに控えていた古参の側近が、不思議そうに顔を上げる。


「殿下?」


「いや」


リチャードは杯を口元へ運びながら、肩を揺らした。


「ジョンの顔を思い出してな」


「ジョン殿下の?」


「ああ」


父と兄の間に座らされ、自分の将来について勝手に話を進められ。

本人が何度「欲しくない」と言っても聞いてもらえず。

最後には、自分の収入を兄の領地から出すという話まで飛び出した。


あの時のジョンの顔。

完全に怯えていた。


「『僕、兄上に怒られてませんよね』だぞ」


リチャードは思い出して、また少し笑った。


「俺より親父の方を怖がればいいものを」


側近も苦笑する。


「十六歳の末弟君には、いささか気の毒な話ではございましたな」


「まあな」


ジョンは別に、ポワトゥーを寄越せと要求したわけではない。

むしろ、いらないと何度も言っていた。


それなのに父親から勝手に将来を決められ、兄との間へ放り込まれている。


「あいつも大概、貧乏くじを引かされたものだ」


「殿下は、ジョン殿下をお恨みではないので?」


リチャードは即座に首を振った。


「何でだ。あいつは何もしてない」


「しかし、陛下はジョン殿下のために――」


「それは親父の都合だろ」


言い切ってから、リチャードは杯を置いた。

笑みが少しずつ消えていく。


「……問題は、そこじゃない」


側近の表情も変わった。


「と、申されますと?」


「親父は、本気であれを妥協だと思ってる」


低い声だった。

怒っているというより、考え込んでいる。


「俺の言い分も分かっている。ジョンが欲しがっていないことも、

多分分かってる。それでも最後には、『家全体のためだから従え』になる」


側近は黙って聞いている。

リチャードは卓上に広げられた地図へ視線を落とした。


「昔からそういう男だ」


王国全体を見る。

複数の領地を同時に考える。

誰に何を与え、どこをどう結び、

どこへ兵を置けば全体が最も強くなるかを考える。


その能力について、リチャードも疑ってはいない。


むしろ恐ろしく頭が切れることくらい、誰より知っている。

だからこそ厄介だった。


「親父は、自分が全体を見てると思ってる」


「実際、陛下ほど広く見ておられる方もおりますまい」


「そうだな」


リチャードはあっさり認めた。


「だから、余計に自分の判断を疑わない」


そこだった。


リチャードが嫌なのは、父親が愚かだからではない。

むしろ反対だ。


大抵の場面では正しい。

多くの相手より先を読み、損得を計算し、実際に結果を出してきた。


だから家族相手でも、自分の判断が最後には通ると思っている。


「俺が親父の事情を理解すれば、最後には従うと思ってるんだ」


「しかし殿下は」


「従わない」


迷いなく答えた。


「俺は親父を倒したいわけじゃない。王座もいらん。ジョンとも争う気はない」


一度言葉を切る。


「だが、アキテーヌまで親父の都合で削らせるつもりもない」


側近が静かに頷いた。


「では、どうなさいます」


リチャードは少し考えた。


「備える」


「兵を?」


「全部だ」


立ち上がり、地図のそばへ歩み寄る。


「城の備蓄を確認しろ。特に北側の要塞は念入りにな。

諸侯の様子も見ておけ。誰が親父と接触したかまで逐一騒ぐ必要はないが、

妙な動きがあれば俺に知らせろ」


「警戒を強める、と」


「ああ」


側近が少し迷ってから尋ねる。


「陛下が攻めてくるとお考えですか」


リチャードはすぐには答えなかった。

やがて、首を振る。


「分からん」


それが一番正直な答えだった。


父がいきなり軍を向けてくるとは思っていない。

少なくとも、今は。


だが、だからといって、何もしないとも思えなかった。


ヘンリー二世という男は、諦めるのが嫌いだ。

一つの手が駄目なら、別の手を考える。

それ自体は王として美点でもある。

息子として相手にすると、たまったものではないだけで。


「正面から駄目なら、別の話を持ってくるかもしれん」


リチャードは言った。


「別の条件かもしれんし、別の土地かもしれん。

誰かを間に立てるかもしれん」


「ジェフリー殿下のように?」


「……あいつはもう嫌がるだろ」


思わず少し笑う。


「前回、完全に手ぶらで帰ったからな」


それでも父が何をするかは分からない。

だから、守る。


それだけだった。


「俺からは動かん」


リチャードは地図から顔を上げた。


「親父の土地へ攻め込む気もない。反乱を起こすつもりもない」


「はい」


「だが、何もされないと信じて寝てるほど馬鹿でもない」


その声は静かだった。


怒鳴りもしない。

剣にも手をかけない。

ただ、領主として必要なことを確認しているだけだった。


しばらくして側近がふと口元を緩めた。


「それにしても」


「何だ」


「ジョン殿下は、もうしばらく陛下のお誘いには乗られぬかもしれませんな」


リチャードが吹き出した。


「ああ」


今度は素直に笑った。


「次に親父が『お前のためだ』と言った瞬間、逃げるかもしれんな」


「仮病でも?」


「母上直伝のな」


二人の間に、少しだけ笑いが戻った。

だが、リチャードの警戒が解けたわけではない。


父を敵だとは思っていない。

それでも、

父だからといって、無条件に信じて背中を預けられる相手でもなくなっていた。


その違いは小さいようでいて

この家族にとっては、決して小さくなかった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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