第167話:ノルマンディー帰還、三男の「手ぶらで帰ってきました」報告
ジェフリーの報告
ノルマンディー、国王軍の本営。
ポワティエから戻ってきた三男ジェフリーは、
旅装を解く間もなくヘンリー二世の天幕へ通された。
天幕の中央では、父王が腕を組んだまま待ち構えている。
ジェフリーの顔を見るなり、ヘンリーは一歩前へ出た。
「どうだった」
「何がです?」
「リチャードだ!」
「ああ」
ジェフリーは肩をすくめた。
「無理でした」
ヘンリーの眉が跳ね上がった。
「……何だと?」
「手ぶらで帰ってきました」
「お前は何のために行ったのだ!」
怒鳴り声が天幕に響く。
周囲にいた側近たちが、さりげなく半歩ずつ距離を取った。
ジェフリーは気にせず続ける。
「だから最初から言ったじゃないですか。条件も譲歩案も交渉権もないのに、
どうやって兄上を説得しろっていうんです」
「話し合いの席につかせろと言った!」
「話しましたよ」
「なら何故まとまらん!」
「まとまる材料がないからです」
即答だった。
ヘンリーの顔が険しくなる。
ジェフリーは小さく息を吐いた。
「それと」
「何だ」
「リチャード兄上は、父上の王座を狙ってはいません」
ヘンリーの目が細くなった。
「……なぜそう言い切れる」
「本人がそう言ってました」
「それを信じたのか」
ジェフリーは一瞬黙った。
そして、ゆっくり天井を仰いだ。
「……父上」
「何だ」
「僕を使者に出した意味、あります?」
「何?」
「相手の言葉を何一つ信用しないなら、
使者を送って話を聞かせる意味ないでしょう」
ヘンリーは黙った。
ジェフリーは続けた。
「兄上は反乱したいわけじゃないんです」
声は、いつもの軽い調子より少しだけ低かった。
「王座を奪いたいわけでもない。父上の領地へ攻め込むつもりもない」
「なら」
ヘンリーが即座に返す。
「従えばよい」
「だから、そこが違うんですって」
ジェフリーは額を押さえた。
「兄上が守っているのは、王位じゃない。今持っている土地です」
「分かっている」
「じゃあ」
「分かった上で言っている」
ヘンリーの声が低くなる。
「私は家全体を見ている。リチャードは自分の領地を見ている。
それだけの違いだ」
ジェフリーは黙った。
これなのだ。
父は、何も分かっていないわけではない。
むしろ、分かっている。
リチャードが何故怒るのか。
何故ポワトゥーを手放したくないのか。
何故曖昧な将来の約束では納得しないのか。
その全部をある程度は理解している。
その上で自分の判断の方が、より広い範囲を見ているから正しいと思っている。
「父上」
ジェフリーは珍しく、真正面から父を見た。
「兄上は十代の頃から、南でずっと現場を守ってきたんですよ」
「知っている」
「反乱も鎮めた。諸侯とも戦った。あの土地で、自分の立場を自分で作ってきた」
「知っている」
「それを」
ジェフリーは少しだけ語気を強めた。
「将来について何も確約しないまま、
今あるものだけ差し出せと言われたら、誰だって警戒しますよ」
ヘンリーの表情は変わらなかった。
「だからといって、王の命令に従わなくてよい理由にはならん」
「……ほら」
ジェフリーの肩から、ふっと力が抜けた。
「そうやって戻る」
「何がだ」
「兄上の事情は分かる。でも最後は『王の判断に従え』」
「当然だ」
「それじゃ話が進まないんですよ」
「では、私が折れろと言うのか」
「そうは言ってません」
「リチャードを擁護しているようにしか聞こえん」
ジェフリーは目を閉じた。
そして乾いた声で呟いた。
「……ほら、始まった」
「何だと?」
「僕は兄上の味方をしてるんじゃありません」
ジェフリーは疲れたように言った。
「兄上が何を考えてるか説明してるだけです」
「同じことだ」
「違いますよ」
即答だった。
「相手の言い分を説明したら、その瞬間に相手側へ分類される。
それじゃ誰も父上に本当の話を持って来なくなります」
天幕の中が静かになった。
側近たちは誰一人として口を挟まなかった。
ジェフリー自身、こんなことを言うつもりはなかった。
以前なら父と兄が揉めていようが
どちらが得か
どちらに乗れば面白いか
その程度しか考えなかったかもしれない。
でも、
”アンリはもういない”
昨日まで騒いでいた兄が。
今はもうどこにもいない。
だから。
少しくらい話せるうちに話した方がいい。
そう思っただけだった。
「父上」
ジェフリーは静かに言った。
「リチャード兄上は、父上と話すことそのものを拒んではいません」
ヘンリーの眉がわずかに動く。
「ただ」
「ただ?」
「命令に従うための話し合いなら、意味がないと思ってる」
「…………」
「父上も」
ジェフリーは少しだけ苦笑した。
「兄上が『はい』と言うまで説明を続けることを、
話し合いだと思ってるでしょう」
ヘンリーの顔が険しくなる。
「口が過ぎるぞ」
「そうですね」
ジェフリーはあっさり引いた。
「使者としての報告は以上です」
「待て」
「何です?」
「結局、リチャードは何と言った」
ジェフリーは少し考えた。
「父上の意図は理解した」
「それは聞いた」
「でも、ポワトゥーは渡さない」
ヘンリーの眉間に皺が寄る。
「……頑固者め」
ジェフリーは小さく笑った。
「父上に似たんじゃないですか」
「何か言ったか」
「何も」
ジェフリーは軽く頭を下げた。
「では、僕は休ませてもらいます。さすがに疲れました」
くるりと踵を返す。
その背中へヘンリーが低い声で呼びかけた。
「ジェフリー」
「はい」
「お前は」
少し間が空いた。
「本当に、リチャード側についたわけではないのだな」
ジェフリーは振り返った。
その問いに、
以前なら面白そうだから曖昧に笑ったかもしれない。
今は
「ついてませんよ」
普通に答えた。
「僕は僕の側です」
ヘンリーの顔がわずかに歪む。
ジェフリーはいつもの薄い笑みを浮かべた。
「でも」
一拍。
「これ以上、家族が減るのは面倒なので」
「…………」
「それだけです」
そう言って。
ジェフリーは天幕を出ていった。
◆
数日後。
オールド・サラム城塞。
私は、大陸から届いた報告を読みながら、お茶を飲んでいた。
途中までは普通に、
「……へえ」
ジェフリーが戻った。
リチャードは折れなかった。
ヘンリーも折れなかった。
まあ、いつものことだ。
だがその次の一文を読んで私は止まった。
「……ねえ、侍女長」
「はい」
「これ、本当にジェフリー?」
「間違いございません」
「私の三男の?」
「はい」
「損得勘定が服着て歩いてる、あの?」
「……表現についてはともかく、ジェフリー殿下でございます」
私は報告書をもう一度読む。
――リチャード殿下の考えを父王へ説明。
――兄は反乱を望んでいないと主張。
――父王へ、相手の言い分を聞かず服従だけを求めても話は進まないと進言。
「…………」
私は椅子から立ち上がった。
「ジェフリーが」
「はい」
「真面目に仲裁してる」
「そのようでございます」
「ジェフリーが!?」
「はい」
「何があったのあの子ォォォォッ!!」
思わず叫んだ。
侍女長が少しだけ眉を上げる。
私は報告書を握ったまま部屋を歩き回った。
「いや、だってあの子よ!? いつも一歩引いて、誰が得するか見て、
面白そうな方へ首突っ込んでたあの子が!」
「若王殿下がお亡くなりになられたことが、何か影響しているのかもしれません」
私は足を止めた。
「……ああ」
少しだけ声が小さくなる。
そうかもしれない。
アンリは病で死んだ。
誰かに殺されたわけでもない。
反乱のせいで死んだわけでもない。
それでも昨日までいた兄が、ある日急にいなくなった。
それを見れば残った兄弟同士の争いが、
いつまでも同じ形で続くなんて思えなくなるのかもしれない。
「……あの子」
私は報告書を見下ろした。
「少し変わったのね」
侍女長が静かに頷く。
私はほんの少しだけ笑った。
「成長したじゃないの」
そして次の行を読む。
――ヘンリー王、『お前までリチャードの肩を持つのか』と発言。
私の笑顔が消えた。
「…………」
もう一度読む。
間違いない。
私はゆっくり顔を上げた。
「ヘンリー」
侍女長が一歩下がった。
「王妃殿下」
「いや」
私は額を押さえた。
「分かってないわけじゃないのよね、あの人」
「はい」
「分かってるの」
リチャードが何を守りたいのかも
ジェフリーが何を説明しているのかも
多分ある程度は分かっている。
「でも最後に絶対」
私は指を立てた。
「『それでも俺の判断に従え』へ戻るのよ!」
侍女長は何も言わなかった。
「そこ!」
机を指差す。
「そこから一回離れろって言ってんのよ!」
返事はない。
当然だ、本人は海の向こうである。
私は深々と椅子へ沈んだ。
「息子たちが少しずつ変わってるのに」
ぽつりと呟く。
「親父だけ、同じ場所をぐるぐる回ってるじゃない」
侍女長が静かに言った。
「陛下には陛下のお考えがあるのでございましょう」
「分かってるわよ」
私は大きくため息をついた。
「だから余計に面倒なの」
馬鹿だから話が通じないわけではない。
悪人だからでもない
理屈もある
経験もある
能力もある
そして、だからこそ自分の判断を最後まで手放せない。
「……ああもう」
私は冷めかけたお茶を飲んだ。
「ジェフリーまで真面目に橋をかけ始めたのに、
なんで一番年上が橋の真ん中に関所作ってんのよ」
侍女長がほんの少しだけ笑った。
「アンジュー家」
息子たちは一人欠けたことで、少しずつ変わり始めていた。
父親だけは
まだ自分が作った仕組みの中央から、動こうとはしていなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




