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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第166話:夜のワインと、欠けた席

ジェフリーもなぁ。

ポワティエ大公宮殿、見晴らしの良いテラス。

昼間の厳しい陽射しはすっかり消え、

南仏の涼しい夜風が石造りの欄干を抜けていた。


小さな卓の上には、赤ワインの入った陶器の水差しと、二つの銀杯。


護衛も側近も少し離れた場所へ下がらせ、今は兄弟二人だけだった。

ジェフリーは杯を軽く傾け、香りを確かめてから一口含んだ。


「……うん。やっぱりこっちの酒は美味いね」


向かいに座るリチャードが、無愛想に杯をあおる。


「文句があるならノルマンディーで飲め」


「褒めてるんだけど」


「そうは聞こえん」


「兄上、何を言っても喧嘩腰だよね」


「お前相手だからな」


「ひどいなあ」


いつもの調子だった。


昼間のような警戒は薄れている。


それでも、完全に気を許しているわけでもない。

ジェフリーは杯を指先で回しながら、しばらく夜の庭を眺めていた。

やがてぽつりと口を開く。


「……アンリ兄上さ」


リチャードの手が止まった。


「何だ」


「生きてたら、今頃何してたと思う?」


唐突な問いだった。

だが、リチャードは少し考えただけで答えた。


「どこかのトーナメントで金を使い果たしてる」


「うん」


「そのあと親父に金を出せと言って怒鳴られる」


「うん」


「それでも懲りずに、また派手な服を作る」


ジェフリーが吹き出した。


「ありそう」


「ありそうじゃない。やる」


「断言するんだ」


「アンリ兄上だぞ」


「それもそうか」


二人の間に、短い笑いが落ちた。

それから、静かになる。


ジェフリーは杯の中を見つめた。


「……あんなに騒がしい人だったのにね」


リチャードは何も言わなかった。


「どこへ行っても人が集まって。金を使って。親父に文句を言って。

僕たちにも文句を言って」


「お前にも散々借金を頼んでただろう」


「返す気のない顔でね」


「返ってきたのか」


「聞かないで」


また少し笑う。

だが、今度の笑いは長く続かなかった。


リチャードが杯を置く。


「……死んだと聞いた時は、信じられなかった」


ジェフリーが顔を上げる。


「俺も」


リチャードは低く続けた。


「あんなに騒がしかった男が、

最後には親父の指輪を受け取って死んだなんてな」


「……うん」


「最後まで、親父のことを気にしてた」


「そうだね」


リチャードの顔には、怒りとも悲しみともつかないものが浮かんでいた。


「馬鹿な兄貴だ」


「否定はしないよ」


ジェフリーは静かにワインを口に含んだ。


しばらくして


「……僕たちも、似たようなものかもしれないけどね」


リチャードが眉を寄せる。


「何がだ」


「結局、みんな親父を気にしてる」


「俺は違う」


即答だった。

ジェフリーは笑う。


「そうやって即答するところが一番怪しいんだけど」


「黙れ」


「はいはい」


夜風が吹いた。


ジェフリーは椅子へ深く座り直す。


「ねえ、兄上」


「何だ」


「親父って、昔からあんなだったっけ」


リチャードは少し考えた。


「強引だった」


「うん」


「人の話を聞かない」


「うん」


「自分が一番正しいと思ってる」


「今もだね」


「今もだ」


ジェフリーは苦笑した。

リチャードは夜空を見上げる。


「ただ」


「ただ?」


「前より、息子に何かを任せるのを嫌がるようになった気はする」


ジェフリーは黙った。


それが老いなのか。

若ヘンリーの反乱を経て慎重になりすぎただけなのか。


あるいは

元々あった性格が、年を重ねて強く出るようになっただけなのか。


ジェフリーには分からなかった。


ただ、父が息子たちを信用していないわけではない。

能力も分かっている。


それでも

最後の判断だけは、自分の手から離そうとしない。

その傾向が、以前より強くなっているようには見えた。


「アンリ兄上も馬鹿だったし」


ジェフリーが言った。


「親父も頑固だった」


「そうだな」


「どっちも引かなかった」


「そうだ」


「だから」


ジェフリーは杯を卓へ置いた。


「兄上が死んだあとまで、同じやり方を続けるのは、さすがにどうなんだろうね」


リチャードは答えなかった。

ただ、少しだけ目を細めた。


「俺はアンリ兄上とは違う」


「知ってる」


「親父の王座を奪う気もない」


「それも知ってる」


「だが」


リチャードの声が少し低くなる。


「この土地を渡す気もない」


「それも知ってるよ」


ジェフリーは苦笑した。


「だから僕、最初から兄上を説得できるなんて思ってないんだって」


「では何をしに来た」


「昼間も言っただろう」


ジェフリーは少しだけ真面目な顔になった。


「話せるうちに、話した方がいいと思っただけ」


リチャードが黙る。

ジェフリーもそれ以上は言わなかった。


少し前までなら

父と兄がどこまで意地を張るのか、

誰が先に折れるのか、

どちらへ立てば一番得か、

そんなことばかり考えていたかもしれない。


今でも、

損得は見る、

立場も見る、

”自分が損をするのは嫌だ”

そこは変わっていない。


ただ、盤上の駒が永遠に盤上にいるわけではないことを知った。

昨日まで隣にいた人間が明日にはいなくなることもある。


そのことだけが以前とは違っていた。


ジェフリーは杯に残ったワインを飲み干した。


「明日、ノルマンディーへ戻るよ」


「そうか」


「親父には」


ジェフリーはいつもの薄い笑みを浮かべた。


「『リチャード兄上は頑として聞き入れませんでした。僕の力不足です』

って、ものすごく殊勝な顔で謝っておく」


リチャードの口元が少し歪んだ。


「怒鳴られるぞ」


「だろうね」


「下手をすれば、また行けと言われる」


「それは困るなあ」


ジェフリーは立ち上がった。


夜風が外套を揺らす。


少し歩いて足を止めて、振り返らずに言う。


「……兄貴が一人減っただけで、この家、随分静かになったよね」


リチャードは答えない。

ジェフリーは、ほんの少しだけ笑った。


「これ以上、誰かいなくなるのは」


一拍。


「さすがに、面白くないからね」


それだけ言って、

ひらひらと片手を振りジェフリーはテラスを後にした。


残されたリチャードは、空になった杯を見つめた。


もう一つ

向かい側に置かれていた杯。


そして本来なら

ここにもう一人いてもおかしくなかった兄。

欠けた席は、誰も座らなければ意外なほど目立つ。


リチャードは新しくワインを注ぐことなく、しばらく夜の庭を眺めていた。


アンジュー家の夜は、以前より少しだけ静かだった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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