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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第165話:普通に使者として来ただけなのに、前科のせいで全然信用されない件

ジェフリー、リチャードの所に行く。

ポワティエ、大公宮殿の引見室。

南仏の強い陽射しが差し込む部屋の中で、

三男ジェフリーは両手を軽く広げたまま、心底うんざりした顔をしていた。


腰の剣

護身用の短剣

それらはすでに取り上げられ、少し離れた卓上に置かれている。


「……兄上」


長机の向こう側では、リチャードが腕を組んだままこちらを睨んでいた。


「これ、全部預ける必要あります?」


「当たり前だ」


「父上の正式な使者として来たんですよ、僕」


「だから何だ」


「信用ないですねえ」


「あると思うのか?」


「……まあ、そこまで言われると困りますけど」


背後に控えていたリチャードの側近騎士が、慎重に口を開いた。


「殿下。ジェフリー殿下を、このまま城内へお入れしてよろしいのでしょうか」


ジェフリーが眉を上げる。


「まだ何かあるんですか?」


「以前も、陛下の和平使者として来られた後、

そのまま反対側へ残られた前例がございますので……」


「…………」


ジェフリーは一瞬、言葉に詰まった。

否定できない。

リチャードが低い声で言う。


「袖口も調べろ」


「兄上!?」


「何だ」


「僕を何だと思ってるんです!」


「毒針くらい持ってそうな弟」


「ひどくないですか!?」


「前科がある」


「毒針の前科はありませんよ!」


室内に、わずかに空気の緩む気配があった。

ただし、警戒は解けていない。


「……で?」


リチャードが短く言った。


「何の用だ。父上の使いだとは聞いた」


ジェフリーは小さく息を吐く。


「はい。兄上を説得してこいと仰せつかりまして」


「それだけか?」


「それだけです」


「何を企んでる」


「何も」


「嘘つけ」


「だから、ひどくないですか!?」


ジェフリーは両手を広げた。


「今回は本当に、父上に言われたから来ただけですよ!」


リチャードの眉が動く。


「“今回は”って言ったな」


「言葉尻を取らないでください!」


いつもの調子だった。


皮肉

疑い

軽口

どこまで本気なのか、互いに探りながら話す。

それが、この兄弟のいつもの距離だった。


ジェフリーは小さく肩をすくめる。


自分でも急に善人になったつもりなどない。

父への絶対的な忠誠に目覚めたわけでもない。

兄弟愛に目覚めて、涙ながらに和平を願うような人間にもなっていない。


損得は今でも見る。

誰が何を持っていて、

誰が何を欲しがっていて、

どこへ立てば自分が一番困らないか。

その計算は、相変わらず頭の中で勝手に回っている。


ただ、


「……前なら」


ジェフリーは一瞬だけ、視線を落とした。


以前の自分なら、父と兄たちがどこまで意地を張るのか。

誰が先に音を上げるのか。

誰がどちらへ転ぶのか。

盤上の駒を見るような気分で、もう少し面白がっていたかもしれない。


だが今は、ついこの間まで


同じように父へ文句を言い、

金を使い、

人を集め、

派手に騒いでいた長兄アンリが、”もういない”。


反乱が兄を殺したわけではない。

兄は病で死んだ。


それでも

あれだけ揉めて、

あれだけ怒って、

あれだけ明日も続くような顔をしていた人間が、

ある日突然、盤面から消えた。


家族喧嘩はいつまでも同じ形で続くわけではない。

争いに決着がつくより先に、人間の方が、いなくなることもある。

そのことだけは嫌でも分かってしまった。


ジェフリーは、少しだけ静かな声で言った。


「……兄上」


「何だ」


「僕は別に、今回は兄上を父上に無理やり従わせたいわけじゃないです」


リチャードの目が細くなる。


「では、何しに来た」


ジェフリーは少し考えた。


そして


「話し合えるうちに、話した方がいいと思っただけですよ」


室内が静かになった。

軽口でも、皮肉でもない。


”れだけは本音”だった。


リチャードも何かを察したのか、それ以上は問い詰めなかった。


短い沈黙が落ちる。

だがそのまま湿っぽくなるほど、この兄弟は素直ではない。


ジェフリーは、ぱん、と軽く手を叩いた。


「まあ」


リチャードが眉を寄せる。


「何だ」


「父上の持たせてくれた条件が弱すぎて、説得できる気は全然しませんけどね」


「……は?」


「僕、何も持たされてないんですよ」


ジェフリーは肩をすくめた。


「新しい条件もなし。譲歩案もなし。交渉権もなし」


「何しに来たんだ、お前」


「僕もそう思います」


「帰れ」


「まだ来たばかりですよ!」


「父上に何と言われた」


「『とにかくリチャードを話し合いの席につかせろ』と」


「それだけか」


「それだけです」


リチャードはしばらく黙った。


そして、


「……親父らしいな」


「でしょう?」


ジェフリーは大きく息を吐いた。


「兄上の言い分を聞けば聞くほど、

僕でも父上の案に乗る理由が見つからないんですよ」


「だろうな」


「将来は何か大きなものを任せるかもしれない。

でも確約はしない。今あるものだけ先に弟へ譲れ」


ジェフリーは首を傾げた。


「普通、断りません?」


「俺は断った」


「正解ですね」


「お前は父上の使者だろう」


「使者だからって、算数までできなくなるわけじゃないですよ」


リチャードが、ほんの少しだけ口元を歪めた。


笑ったのか

呆れたのか

ジェフリーには分からなかった。


「……まあ」


リチャードは腕を組み直した。


「手ぶらで帰れば、親父がうるさいだろう」


「ものすごく」


「一泊だけ泊めてやる」


ジェフリーの顔が明るくなる。


「本当ですか」


「ワインくらいは飲ませてやる」


「助かります。では、部屋は一番広くて風通しのいいところで」


「調子に乗るな」


「使者待遇というものがですね」


「武器を返す前に追い出すぞ」


「分かりました。普通でいいです」


ジェフリーは素直に引いた。


少なくとも。


今日は。


裏切るために来たわけではない。

父親の条件が弱すぎると思っているのも本当。

リチャードを無理やり従わせる気がないのも本当。


それでも

このまま父と兄が、一言もまともに話さないまま決定的に離れていくのは、

少しだけ嫌だった。


前ならそんなことまで考えなかったかもしれない。

ジェフリー本人はその変化を、わざわざ口にするつもりなどなかった。


口にすれば、

兄に笑われる。

父には疑われる。


そして何より自分らしくない。


だから、いつもの薄い笑みを浮かべたまま。


「ところで兄上」


「何だ」


「夕食は期待していいんですよね?」


「帰れ」


「だから泊めるって言ったじゃないですか!」


前科のせいで信用は、まだほとんどない。

けれど、完全に同じ場所へ戻ったわけでもない。


長兄が一人欠けたあと、

残った兄弟たちはほんの少しずつ、以前とは違う距離の取り方を始めていた。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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