第160話:親父の事情は分かったので、それはそれとして現場を守ります
頑固親子(ΦωΦ)
ポワティエ、大公宮殿の作戦室。
机の上には、アキテーヌ各地の城塞と街道を書き込んだ地図が広げられていた。
ヘンリー二世の側近が去った後も、
リチャードは怒鳴り散らすことも、机を叩くこともなかった。
ただ静かに、各地から届いた報告書へ目を通している。
そのあまりの落ち着きぶりに、側近の騎士が少し不安そうに声をかけた。
「……殿下」
「何だ」
「陛下のお考えは、ご理解になられたのでございますよね」
「ああ」
「でしたら」
側近は恐る恐る続ける。
「少しくらいは、譲歩されてもよいのでは」
リチャードは顔も上げなかった。
「なぜ?」
「……はい?」
「親父の事情を理解したことと、俺が損をすることに同意するのは別だろう」
側近は黙った。
あまりにも当然のことを言う顔だった。
「親父が俺を嫌っているわけではない。それは分かった」
リチャードは一枚の書状を脇へ置く。
「アンリ兄上の件があったから、次の後継者を簡単には決めたくない。
それも分かった」
「はい」
「ジョンにも立場を与えたい。それも分かる」
「では」
「だが」
リチャードがようやく顔を上げた。
「だからといって、俺がポワトゥーを差し出す理由にはならん」
側近は静かに目を閉じた。
そうなると思っていた。
リチャードは再び地図へ視線を落とした。
「まず、北から来る使者と兵の動きはすべて報告させろ」
「はっ」
「城の補修状況も確認しろ。兵糧もだ」
「承知いたしました」
「ただし」
側近が顔を上げる。
「こちらから挑発するな」
「……はい?」
「親父の領地へ兵を出す必要はない」
リチャードは淡々と言った。
「向こうが何もしないなら、こちらも何もしない」
側近は少し驚いた。
「殿下から攻め入られるおつもりは」
「ない」
即答だった。
「俺は親父から王座を奪いたいわけではない」
声に迷いはなかった。
「アンリ兄上が父上と争い続けて、
最後まで何一つ決着をつけられないまま死んだのを見ただろう」
側近は黙って頷いた。
「同じことをやる気はない」
リチャードは地図のポワトゥーを指した。
「俺が守るのはここだ」
母の土地。
そして今では、自分が何年もかけて治めてきた土地。
十代の頃から諸侯と争い、城を落とし、反乱を鎮めながら支配を固めてきた。
「親父が何を考えているかは分かった」
リチャードは短く息を吐いた。
「だが、俺が何年もかけて守った土地を、
将来の曖昧な話と引き換えに差し出すつもりはない」
側近は静かに頷いた。
「それから」
「はい」
「ジョン本人に責任はない、と諸侯にも伝えておけ」
側近が少し驚いた。
「ジョン殿下について、でございますか」
「あいつ自身がポワトゥーを欲しがっているわけではない」
「はい」
「なら、弟を敵扱いする理由もない」
リチャードは地図から目を離さない。
「余計な話を広げるな。
『兄弟で土地を奪い合っている』
などと騒がれれば、面倒な連中が寄ってくる」
側近は思わず姿勢を正した。
「承知いたしました」
こういうところだった。
戦場では誰よりも前へ出る。
怒れば怖い。
諸侯にも容赦がない。
だが、十代の頃からこの土地を治めてきた男でもある。
誰が敵で、誰が敵ではないのか。
どこまで備えて、どこから先は動かないのか。
その線引きは、思っている以上にはっきりしていた。
「城の備えは整える」
リチャードは続ける。
「兵の動きも見る」
「はい」
「だが、俺から戦を始めるつもりはない」
「はい」
側近の顔に、ようやく安堵が浮かんだ。
「では」
「何だ」
「陛下へも、そのようにお伝えしてよろしいでしょうか」
「ああ」
側近はほっと息を吐く。
「『リチャード殿下に反乱の意図はない』と」
「そう伝えろ」
「承知いたしました」
「それから」
側近の表情が止まった。
嫌な予感がした。
「『命令にも従わない』と」
「…………」
側近はしばらく黙った。
「殿下」
「何だ」
「確認いたします」
「ああ」
「反乱はしない」
「しない」
「陛下の領地にも攻め込まない」
「攻め込まない」
「ですが、陛下の命令にも従わない」
「従わない」
側近は天井を見上げた。
「……それを世間一般では、何と呼ぶのでございましょう」
リチャードが眉を寄せる。
「知らん」
「知らん?」
「統治だ」
側近が顔を戻した。
「便利な言葉ですね!?」
リチャードは不思議そうに首を傾げた。
「自分の土地を守っているだけだ」
「陛下から見れば、命令拒否でございます!」
「だから?」
「だから、また揉めるのです!」
作戦室に側近の声が響いた。
リチャードは気にせず、次の報告書へ手を伸ばした。
親父の事情は分かった。
だからといって、譲る理由にはならない。
反乱する気もない。
戦争を始める気もない。
ただ命令には従わない。
”誰より真面目に現場を守りながら、父親の命令だけは綺麗に拒否する”
それが、この時のリチャードの答えだった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




