第156話:ワンマン経営者、自分の中では筋が通っている件
まぁヘンリーだし?
ノルマンディーとアンジューの境に近い宿営地。
夜もだいぶ更けているというのに、
ヘンリー二世の天幕にはまだ灯りが点いていた。
卓上には何枚もの地図と書状。
ノルマンディー
アンジュー
ポワトゥー
アキテーヌ
広大すぎる領地の境界線を、ヘンリー二世は羽根ペンの先で何度もなぞっていた。
長男アンリが死んだ。
それは確かに大きな痛手だった。
だが王国も領地も、息子を失ったからといって止まってはくれない。
むしろ、一人抜けたことで今まで
以上に整理しなければならないことが増えている。
「……リチャードは、感情的になっているだけだ」
ヘンリー二世は地図から目を離さないまま言った。
背後に控えていた古参の側近が、静かに頭を下げる。
「私は家全体の均衡を考えている」
羽根ペンの先が、ポワトゥーの上で止まる。
「アンリがいなくなった以上、今後のことは改めて考え直さねばならん。
リチャードだけではない。ジェフリーにも立場があり、
ジョンにも相応の場所を与えなければならない」
「はい」
「リチャードには、将来もっと大きな責任を負わせることになるかもしれん」
側近が顔を上げた。
ヘンリー二世は続ける。
「イングランド。ノルマンディー。アンジュー。私が持つ主要な領地を、
いずれあいつが担う可能性は高い」
その言葉だけを聞けば、話は非常に分かりやすい。
長男がいなくなった。
次男を将来の中心へ移す。
そのぶん、今まで次男が持っていたものの一部を末子へ回す。
組織の再配置として考えれば、驚くほど筋は通っている。
”ヘンリー二世本人の頭の中”では。
「ならば」
側近が慎重に口を開いた。
「そのお考えを、リチャード殿下へ正式にお伝えになってはいかがでしょう」
ヘンリー二世の眉が動いた。
「まだ早い」
「……早い、とは」
「正式な後継者として扱うには早いと言っている」
側近は少し黙った。
「しかし、陛下。若王殿下がお亡くなりになった以上、
リチャード殿下ご自身も、周囲の諸侯も――」
「だからこそだ」
ヘンリー二世が遮った。
「アンリの時と同じことにならぬ保証がどこにある」
声は荒くない。
むしろ、ひどく冷静だった。
「後継者だと明言すれば、本人がどう思おうと周囲が担ぐ。
諸侯は次の王へ近づこうとする。人が集まり、金が集まり、
やがて独自の意志を持ち始める」
「……」
「アンリで一度見た」
その一言だけは重かった。
ヘンリー二世は長男の反乱を忘れていない。
いや、忘れられるはずがない。
自分の息子に王冠を与えた。
名誉を与えた。
そして
その息子は、自分に牙を剥いた。
「同じことを繰り返すつもりはない」
ヘンリー二世は静かに言った。
「だからリチャードには、必要な時が来るまで余計な確信を持たせん」
側近は、しばらく黙っていた。
そして。
「……陛下」
「何だ」
「では」
非常に言いにくそうに続ける。
「リチャード殿下から見れば」
「うむ」
「将来何を継げるのかは明言されない」
「そうだ」
「その一方で、現在治めておられるポワトゥーには、
ジョン殿下の立場を作るよう求められる」
「そうだ」
「……つまり」
側近は一度、深呼吸した。
「今あるものだけ削られるように見えるのですが」
ヘンリー二世が顔を上げた。
「なぜそう受け取る?」
側近は即答した。
「そうとしか受け取れないからです」
天幕が静かになった。
ヘンリー二世は、本気で分からないという顔をしている。
側近は、さらに説明した。
「陛下のお考えでは、リチャード殿下はいずれより大きな責任を負う。
その前提がございます」
「当然だ」
「しかし、その前提をご本人には明かされておりません」
「まだ早いからな」
「ですので」
側近の声に、少しずつ疲労が混じっていく。
「リチャード殿下から見えるのは、『父上は自分を後継者とは言わない。
しかし、自分が今持っている土地には手を出す』という部分だけにございます」
ヘンリー二世は腕を組んだ。
「……あいつは深読みしすぎる」
側近は一瞬だけ目を閉じた。
「深読みではないかと」
「私は家全体のために考えている」
「それを、ご本人にもお伝えになれば」
「言えば余計な力を持つ」
「では、どうやって理解させるのでございますか」
ヘンリー二世は少し考えた。
「私を信じればよい」
側近は黙った。
完全に黙った。
十年以上この王に仕えてきた男の顔に、
『それができていれば今こうなっていない』
と書いてあった。
だが、言わなかった。
言っても仕方がないからである。
「とにかくだ」
ヘンリー二世は再び地図へ目を落とした。
「こちらが考えを変えるつもりはないと、もう一度リチャードへ伝えろ」
「……はい」
「ジョンにも立場が必要だ」
「はい」
「リチャードも、いずれ分かる」
「……はい」
返事が少し遅れた。
ヘンリー二世が顔を上げる。
「何だ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
側近は迷った。
そして、とうとう言った。
「リチャード殿下も、同じことを仰っておりました」
「何を」
「『親父もいずれ分かる』と」
沈黙。
ヘンリー二世の眉間に皺が寄った。
「……誰に似たんだ、あの頑固者は」
側近は目を伏せた。
絶対に言わなかった。
『本人です』
とは。
ヘンリー二世は再び羽根ペンを取り、命令書を書き始めた。
父親は、息子のために考えているつもりだった。
息子は、父親に足元を削られていると思っていた。
そして二人とも
”相手より自分の方が話の通じる人間だ”
と信じていた。
この家族が揉めない方が、無理というものである。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




