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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第151話:末っ子、命が惜しいので次兄に先に謝りに行く件

母の手紙を実行する末っ子

ルーアン宮殿、西棟。


十六歳のジョンは、母から届いた「サバイバル指南書」を胸に、

廊下をそろそろと歩いていた。


母の教え、その二。


『リチャード兄上には、最優先で弁明しなさい』


内容は簡潔に。


『僕は何も言ってません』


それだけでいい。


理屈は分かる。

非常によく分かる。


問題は

その一言を伝える相手が、リチャード兄上だということだった。


「……怖いんだよなあ」


ジョンは小さく呟いた。


会議の時に向けられた視線を思い出す。

あの瞬間のリチャードは、

どう見ても人の話を穏やかに聞いてくれる兄ではなかった。

完全に戦場の顔だった。


とはいえ。

ここで黙っていた結果、


『ジョンもポワトゥーを欲しがっていた』


などと誤解される方がもっと怖い。


ジョンは意を決して部屋の扉を叩いた。

返事を待って中へ入る。

リチャードは窓際に座り、剣の刃を砥石で整えていた。


シャリ…シャリ

シャリ…シャリ

シャリ…シャリ


静かな部屋に、乾いた音だけが響いている。


ジョンは扉の前で止まった。


帰りたい。

ものすごく帰りたい。


「……あの」


「何だ」


リチャードは振り向かなかった。


声が低い。

やっぱり帰りたい。


「兄上」


「だから何だ」


「先に言っておきたいことがありまして」


「言え」


ジョンは一度、大きく息を吸った。


そして、


「僕、ポワトゥー欲しいなんて一言も言ってませんからね!?」


砥石の音が止まった。

リチャードがゆっくり顔を上げる。


ジョンの背筋が伸びた。


数秒沈黙………


そして


「……知ってる」


「え?」


あまりにもあっさりした返事だった。

ジョンは思わず瞬きをした。


「知ってたんですか?」


「親父が勝手に言ってるだけだろ」


「……はい」


「そもそも、お前が俺のところへ来て

『ポワトゥーを寄こせ』

んて言える性格なら、もう少し見直してる」


「…………」


助かった。

ものすごく助かった。


ただし、地味に傷ついた。


「兄上」


「何だ」


「安心はしましたけど、今ちょっと僕の自尊心も傷つきました」


「知らん」


「そこは少しくらい気を遣ってくださいよ!」


リチャードは鼻で笑い、再び剣へ目を落とした。


「俺がお前に怒っていると思ったのか?」


「思いますよ!」


ジョンは即答した。


「あんな目で睨まれたら、普通は自分の葬式の段取りまで考えます!」


「大袈裟だ」


「兄上が言います!?」


リチャードは少し考えた。


「……まあ、腹は立った」


ジョンが一歩下がった。


「あるんじゃないですか!」


「お前にじゃない」


リチャードの声から、少しだけ冗談めいたものが消えた。


「親父にだ」


ジョンは黙った。

リチャードは剣を置き、椅子の背にもたれた。


「アンリ兄上が死んだ」


「……はい」


「普通なら、その次の話をするだろう」


ジョンにも、それは分かる。

若ヘンリーがいなくなれば、次に誰が父の主要な領地を継ぐのか。

順番だけなら明らかだった。


「だが親父は、俺が次だとは言わない」


リチャードは吐き捨てた。


「そのくせ、俺が今持っているものには手を出す」


「……ポワトゥー」


「ああ」


そこは母の土地だった。

そして今では、リチャード自身が何年もかけて支配を固めてきた土地でもある。


反乱する諸侯と戦い、

城を落とし、

時には焼き、

時には交渉し、

何度も馬を乗り潰しながら、”自分の足で守ってきた”。


「俺に何を継がせるのかは言わない。そのくせ、今あるものだけ先に削れと言う」


リチャードは眉を寄せた。


「気に入らん」


ジョンは何度も頷いた。


「分かります」


「お前に分かるのか?」


「分かりますよ!」


そこは声を大きくした。


「僕だって困ってるんですから!」


リチャードが見る。

ジョンは勢いのまま続けた。


「いきなり『お前はポワトゥーだ』って言われても、僕、

あそこを治めたこともないんですよ! 兄上が何年もかけて

まとめてきたところに突然入って、どうしろっていうんですか!」


「知らん」


「僕だって知らないんですよ!」


兄弟は数秒、顔を見合わせた。


奇妙なことに話が通じていた。


ジョンはポワトゥーを欲しがっていない。

リチャードはジョン本人を敵だとは思っていない。


それだけ確認すれば、少なくとも二人の間には争う理由がなかった。


「……なんだ」


ジョンはぽつりと言った。


「何がだ」


「兄上と直接話したら、普通に終わったなと思って」


リチャードが眉を上げる。


「何を期待してた」


「もっとこう……怒鳴られるとか」


「必要なら怒鳴る」


「今は必要ないんですね」


「ない」


ジョンは、心の底からほっとした。


その時だった。


「おや」


扉のところから声がした。


振り向くと、ジェフリーが立っていた。

いつからいたのか分からない。

そして、ものすごく楽しそうだった。


「珍しいね。二人ともまだ生きてる」


「ジェフリー兄上!」


ジョンが抗議する。


「何ですか、その確認!」


「いや。殺し合いになってるかと思って」


リチャードが睨んだ。


「用がないなら出ていけ」


「まあまあ」


ジェフリーは部屋へ入り、二人を見比べた。


「でも面白いな」


「何がです?」


「兄弟だけで話したら、あっさり解決した」


「解決はしてませんよ」


「少なくとも君たち二人の問題はね」


ジョンは口を閉じた。


確かに、自分はポワトゥーを欲しがっていない。

リチャードもそれを分かっている。

そこだけなら、もう何の問題もない。


ジェフリーは笑った。


「もしかして、この家って父上を通さずに直接話した方が早いんじゃない?」


静寂……。

ジョンとリチャードが同時にジェフリーを見た。


「……それ」


ジョンが言った。


「言っちゃ駄目なやつじゃないですか?」


「そう?」


「父上に聞かれたら絶対怒りますよ」


「じゃあ聞かせなければいい」


「そういうところですよ兄上」


リチャードは呆れた顔で立ち上がり、剣を鞘へ収めた。


「くだらん。話は終わりだ」


「兄上、どこへ?」


「南へ戻る」


ジョンの顔が引きつった。


「え」


「親父がまだポワトゥーに手を出すつもりなら、俺も準備しておく」


「ちょっと待ってください!」


ジョンは慌てて追いかけた。


「じゃあ僕、父上には何て言えばいいんですか!?」


リチャードは足を止め、少し考え、そして答えた。


「『兄上は怒っていました』」


「……それだけ?」


「ああ」


「それ言ったら父上、余計怒りません!?」


「知らん」


「知らんじゃないですよ!」


リチャードはそのまま歩き出す。

ジョンは頭を抱えた。


「全然解決してない……!」


横ではジェフリーが笑っている。


兄弟同士なら、話せば意外と話は通じる。


問題はその報告が父親のところへ届いた瞬間、

なぜか次の揉め事へ変換されることである。


アンジュー家の情報伝達。


会話は成立する。

共有すると燃える。


実に困った家族だった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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