第148話:末っ子、何もしてないのに配属先を巡って兄に睨まれる件
ここらからジョンもちょいちょい出始めます(`・ω・´)
ルーアンの宮殿。
長い廊下の隅で、十六歳のジョンは柱の影に半分隠れるようにして立っていた。
執務室の重い扉の向こうからは、いまだに怒鳴り声が聞こえてくる。
「誰が認めるか!」
「秩序を弁えろ!」
低く響く父と兄の声が、分厚い扉越しでも十分に怖い。
ジョンはそっと額の汗を拭った。
「…………」
そして、天井を見上げる。
自分の記憶を遡ってみた。
勉強をサボったことはある。
侍従の目を盗んで菓子をつまんだこともある。
兄たちが喧嘩を始めた時に、気配を消して逃げたことも一度や二度ではない。
だが。
「僕……南へ行きたいなんて、一言も言ってないんだけど」
誰にともなく呟いた。
”そう、何も言っていない”
若ヘンリーが亡くなった後の家族会議でも、ジョンはただ端の席に座り、
なるべく目立たないようにしていただけだった。
リチャード兄上が次の後継者になるのだろう。
ジェフリー兄上はブルターニュがある。
自分は、まあ、そのうちどこかをもらえるのだろう。
その程度に考えていた。
ところが、父親が突然言い出した。
ジョンにも、ポワトゥーで相応の立場を与える、と。
そしてリチャードに、そのための臣従を受けさせる、と。
その瞬間にこちらへ向けられたリチャードの視線を、
ジョンはしばらく忘れられそうになかった。
怖かった。
ものすごく怖かった。
だが、後から考えれば、あの目はジョン本人を殺したいというより、
『親父、また勝手なことを始めやがったな』
という怒りだった気もする。
それでも巻き込まれる側としては怖いものは怖い。
「……僕、何もしてないのに」
「よう、ポワトゥーの新入り」
背後から声がした。
「ひゃっ!」
ジョンは飛び上がった。
振り向くと、ジェフリーが腕を組んで立っている。
口元が笑っていた。
嫌な笑い方だった。
「ジェフリー兄上!」
「何だ、その顔は」
「驚かさないでくださいよ!」
「いやあ、めでたいじゃないか。十六歳にしていきなり南西部へ進出だ」
「めでたくないです!」
ジョンは即答した。
「僕がポワトゥーへ行ったら、リチャード兄上の部下に
城門で追い返されますよ!」
「城門まで辿り着ければいいね」
「何でそんな楽しそうなんですか!」
ジェフリーは肩をすくめた。
「だって、僕の土地じゃないから」
「最低だ!」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ジョンは頭を抱えた。
この三兄は、基本的に状況を面白がる癖がある。
自分に火の粉が降りかからない限り。
たぶん。
その時、執務室の扉が勢いよく開いた。
ヘンリー二世が、怒りで顔を赤くしながら廊下へ出てくる。
「まったく、リチャードの頑固者め!」
「あ、父上」
ジョンが反射的に姿勢を正した。
ヘンリー二世は末っ子を見ると、先ほどまでの険しい表情を少し緩めた。
「おお、ジョン」
そのまま近づき、肩を力強く叩く。
「心配するな。お前の立場は私がきちんと整えてやる」
「は、はい」
「お前ももう十六だ。いつまでも領地を持たぬままではいかん」
「それは、まあ……」
「リチャードが何と言おうと、お前にはお前に相応しい地位が必要だ」
自信満々だった。
父親としては、本気で息子の将来を心配しているのだろう。
だからこそ、ジョンには言いにくかった。
非常に言いにくかった。
でもこのまま黙っていると、もっと怖いことになりそうだった。
「あの、父上」
「何だ?」
「父上は」
ジョンは少し迷ってから続けた。
「僕のことを、可愛がってくださってるんですよね?」
ヘンリー二世が目を丸くした。
「当たり前だ」
即答だった。
「お前は私の大事な息子だ」
そこに嘘はない。
むしろ嘘がないから困る。
ジョンは口元を引きつらせた。
「その割に」
「ん?」
「その割に、兄上たちに殺されそうな配置ばかり提案してくるの、
何なんですか?」
ヘンリー二世が固まった。
少し離れた場所で、ジェフリーが吹き出した。
「何を言っている」
「何をって、前からそうじゃないですか!」
ジョンも勢いがついた。
「僕に城や領地をつけようとするたびに、兄上たちが揉めるし!」
「それは兄たちの問題だ」
「今度はリチャード兄上が何年もかけて治めてきたポワトゥーですよ!」
「だからこそ、家族の中で適切に分ける必要がある」
「その『適切』の結果、僕が直接兄上のところへ放り込まれるんですよ!」
「兄弟なのだから問題あるまい」
「ありますよ!」
ジョンの声が廊下に響いた。
「ものすごくあります!」
ジェフリーがとうとう顔を背けた。
肩が震えている。
絶対に笑っている。
ヘンリー二世は腕を組んだ。
「お前は心配性だな」
「父上が心配させてるんです!」
「リチャードも、いつまでも子どもではない」
「さっきまで中で父上と机叩いて怒鳴り合ってましたよね!?」
ヘンリー二世は一瞬だけ黙った。
「……あれは政治の話だ」
「怖さは同じですよ!」
ジョンは半泣きだった。
父親はしばらく息子の顔を見ていたが、やがて豪快に笑った。
「ハハハ! お前は昔から妙なことを気にするな」
「笑い事じゃないです!」
「心配するな。私が何とかする」
そう言い残し、ヘンリー二世は本当に何とかする気満々で
廊下を歩いていった。
おそらく、リチャードをさらに説得するつもりなのだろう。
ジョンは、その背中をしばらく見送った。
そして、その場でへなへなと壁にもたれた。
「……ねえ、ジェフリー兄上」
「ん?」
「僕、領地なんかいらないから、どこか静かなところで暮らしたいんですけど」
ジェフリーは即答した。
「無理だね」
「早い!」
「この家に生まれた時点で、君も立派な政治案件だよ」
「人じゃなくて案件なんですか、僕」
「父上にとっては、息子であり案件だろうね」
ジョンは両手で顔を覆った。
しばらくして、指の隙間からぼそっと呟く。
「……リチャード兄上、本当に僕のこと怒ってないですかね」
ジェフリーは少し考えた。
「君本人より、父上に怒ってると思うよ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「だから今のうちに、兄上には『僕は何も言ってません』
と伝えておいた方がいい」
ジョンは勢いよく顔を上げた。
「それだ!」
「ただし、近づく時は慎重にね」
「何でです?」
「まだ機嫌が悪いから」
ジョンの顔から、再び血の気が引いた。
ジェフリーはそんな弟を見て、楽しそうに笑う。
「まあ、頑張れ」
「絶対他人事だと思ってるでしょ、兄上!」
長男がいなくなり、一つ空いた席。
それをどう埋めるか考え始めた父親のせいで、
今のところ大した野心も見せていない末っ子まで、
突然アンジュー家の領地再編に巻き込まれた。
本人の希望。
特になし。
父親の希望。
非常に多い。
アンジュー家の人事制度は、
本日も本人の意向をほぼ確認しないまま運用されていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




