第146話:海の向こうから、遅れて届いた報せ
生きてるものには明日が来るからね。
オールド・サラム城塞の居室。
初夏の生ぬるい風が、狭い窓から部屋の中へ入り込んでいた。
机の上には、いつものように何枚かの羊皮紙が広げられている。
商人から聞いた話。
大陸から届いた断片的な報告。
人づてに回ってきた噂。
普段なら、私はそれを一つずつ読み比べながら、
「この情報、どこまで本当なのよ」
とか、
「また途中経過が抜けてるじゃない!」
とか文句を言っている。
でも、今日は何も言えなかった。
「……アンリが?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
侍女長が、ゆっくりと頷く。
「はい」
「……そう」
それきりだった。
大声も出なかった。
机を叩く気にもならない。
泣く、というところまで気持ちが追いついていない。
二十八歳。
私がこの時代で産み、腕に抱き、成長していくのを見てきた息子。
元気で、
派手で、
金遣いが荒くて、
父親と喧嘩して、
弟と張り合って……
何度「いい加減にしなさい」と言いたくなったか分からない、あの長男。
それが、もういないらしい。
「……本当に?」
つい、もう一度聞いてしまった。
「はい」
「間違いじゃなく?」
「残念ながら」
「……そう」
同じ言葉しか出てこない。
情報が遅れて届くというのは、こういう時にひどく残酷だった。
私が「本当に?」と確認している今、
海の向こうでは、とっくに全部終わっている。
私が何を思おうと、
何を言おうと、
”もう間に合わない”
侍女長が少し迷ってから頭を下げた。
「お一人になられますか」
私は一度、頷きかけた。
でも、
「待って」
侍女長が足を止める。
「はい」
「……あの子」
喉が少し詰まった。
「最後に何か言ってたとか……そういうの、分かる?」
聞いたところで何が変わるわけでもない。
それでも知りたかった。
母親というのは、たぶんそういうものなのだろう。
侍女長は少し考えてから、届いた話をゆっくりと口にした。
「若王殿下は、ご病気が重くなられてから、
ヘンリー陛下にお会いしたいと願われたそうです」
「ヘンリーに?」
「はい。最後に父上のお顔を見て、赦しをいただきたいと」
私は思わず目を閉じた。
「あー……」
何とも言えない声が出た。
最後の最後まで”そこ”なのか。
「それで?」
「陛下ご自身は、マルテルへは赴かれなかったとのことです」
「……でしょうね」
驚きはしなかった。
あの状況で、
つい数日前まで戦っていて、
実際に矢まで飛んできて、
その上で「息子が死にかけてるから来てください」と言われても、
ヘンリーなら一度は罠を疑う。
というか。
疑わないヘンリーの方が怖い。
「ただ」
侍女長が続ける。
「陛下は、ご自身の指輪を使者に託されたそうです」
私は顔を上げた。
「指輪?」
「はい。『父はそなたを赦している。その証とせよ』と」
「…………」
今度こそ、何も言えなくなった。
侍女長は静かに続けた。
「若王殿下は、その指輪を受け取られたと伝えられております」
「……そう」
「そして、その後まもなく」
そこで言葉が止まった。
続きは聞かなくても分かる。
私は椅子の背にもたれた。
「……あの子、最後まで親父のこと気にしてたのね」
思わず、ため息みたいに言葉が漏れた。
アンリが欲しかったものは、一つじゃなかった。
土地も欲しかった。
金も欲しかった。
王としての実権も欲しかった。
弟たちから、自分が兄で王なのだと認めてほしかった。
でも、その全部の奥に
父親から、
「お前はもう一人前だ」
と認めてもらいたい気持ちも、ずっとあったのかもしれない。
「……ほんと」
私は目元を指で擦った。
「死ぬまで面倒くさい親子ね」
侍女長は何も言わなかった。
たぶん、何と返していいのか分からなかったのだろう。
私も、笑ったのか泣いたのか、自分でもよく分からなかった。
しばらくして
机の上に置かれた報告書へ、もう一度目を落とした。
そこには、つい昨日まで戦争の中心にいた名前が並んでいる。
ヘンリー
リチャード
ジェフリー
ジョン
そして、
もう一人いたはずの名前が、これから先は消える。
「……一人、減っちゃったわね」
声にすると、やっと少しだけ実感が出た。
この一家は、五人でも面倒だった。
四人になったからといって、急に静かになるような連中ではない。
むしろ
空いた場所をどうするかで、また揉めるに決まっている。
そこまで考えて私は額を押さえた。
「……まさかとは思うけど」
侍女長が不安そうにこちらを見る。
「はい」
「これで終わりじゃないわよね」
「……何が、でございますか」
「家族会議」
侍女長は黙った。
その沈黙が、嫌な答えだった。
私は深く息を吐いた。
「アンリ」
窓の向こうの、遠い空を見た。
「せめて、そっちではもう親父と喧嘩しないでよね」
もちろん、返事はなかった。
それでも私は、ほんの少しだけ笑った。
悲しい
寂しい
腹も立つ
でも、ずっと泣いているわけにもいかない
残された家族は、相変わらず面倒くさいまま生きているのだから。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




