第145話:若き太陽、灰の上で燃え尽きる
(´;ω;`)
1183年6月11日、マルテル。
宿営地の奥にある館では、朝から祈りの声が絶えず続いていた。
若ヘンリーは、もう寝台の上にはいなかった。
死が近いと悟った彼は、聖職者たちの助けを借りて床へ移されていた。
粗い布を身につけ、灰の上に横たわるその姿には、
かつて馬上槍試合の華として人々を熱狂させた若王の面影が、
かろうじて残っているだけだった。
頬は痩せ、唇は乾き、呼吸は浅い。
目を閉じている時間の方が長い。
それでも意識は、まだあった。
遠くで馬の蹄の音がした。
若ヘンリーの瞼がわずかに動く。
誰かが館の中へ駆け込んでくる気配がした。
足音
荒い息
そして、
「殿下」
マルテルから父のもとへ走った騎士が戻ってきた。
若ヘンリーはすぐに口を開こうとした。
だが、声が出ない。
喉が乾ききっている。
何度か息を整え、ようやく掠れた声を絞り出した。
「……父上は?」
騎士は答えなかった。
ほんの一瞬…、それだけだった。
それだけで、若ヘンリーには分かった。
「……来ないのか」
騎士は目を伏せた。
「陛下は……こちらへは参られません」
若ヘンリーはしばらく動かなかった。
驚きはなかった。
怒りも、もうほとんど残っていなかった。
それでも…
胸のどこかで、期待していたのだ。
”最後くらいは父親が来てくれるのではないか”と。
王としてではなく。
敵としてでもなく。
”ただ父親として”
自分の顔を見に来てくれるのではないかと。
「……そうか」
静かな声だった。
若ヘンリーは目を閉じて、死して思う。
思えば、自分も父を信じていなかった。
父の言葉の裏を疑い。
弟たちの動きを疑い。
味方になった諸侯でさえ、いつまで自分の側にいるのか分からないと思っていた。
『誰もが誰かを完全には信じていない』
そんな家族の中で、自分だけが最後に「父は来てくれる」と期待する方が、
虫がよかったのかもしれない。
騎士は、慌てて口を開いた。
「ですが、殿下」
若ヘンリーが目を開ける。
「陛下は、これを」
騎士は両手を差し出した。
その掌には、一つの指輪があった。
若ヘンリーの目が止まる。
見覚えがある。
幼い頃から、何度も父の手にあるところを見てきたものだった。
あの大きな手
いつも忙しく動き
地図を指し
書状を掴み
騎士の肩を叩き
時には自分の頭を乱暴に撫でた、その手
若ヘンリーは、しばらく指輪から目を離せなかった。
「陛下は仰せになりました」
騎士の声が震える。
「『父はそなたを赦す。この指輪を、その証とせよ』と」
若ヘンリーの目が大きく開いた。
「……父上が?」
「はい」
「私を?」
「はい」
その言葉を、何度も確かめるように聞いた。
若ヘンリーはゆっくりと手を伸ばした。
指先が震えている。
騎士が手を添え、指輪を掌へ乗せた。
冷たい金属の感触があった。
ただ、それだけなのに
胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていく。
「……父上は、私を赦してくださったのか」
「はい、殿下」
若ヘンリーは指輪を見つめた。
父の顔は見られない
最後に声を聞くこともできない
その手に触れることも、もうない
それでも
拒絶されたわけではなかった。
自分の死を疑われたまま、完全に切り捨てられたわけではなかった。
若ヘンリーは指輪を唇へ運び、そっと口づけた。
「……よかった」
それだけだった。
側近たちは誰も言葉を返さなかった。
若ヘンリーは指輪を胸元へ置いた。
長かった争いが、ようやく終わったような気がした。
父に認めてほしかった。
王として扱ってほしかった。
自分にも、自分で決められる場所が欲しかった。
最初は、それだけだったはずだ。
王冠を戴いた時、自分は本当に王になったと思った。
人々が歓声を上げた。
騎士たちが集まった。
華やかな衣装をまとい、馬上槍試合へ出れば、誰もが自分を見た。
その時だけは父親の影から出られたような気がした。
けれど宮廷へ戻れば、何かを決めるのは父だった。
土地も、金も、軍も、自分の生活さえ…
それが悔しかった。
だから反抗した。
次こそはと思った。
次に勝てば、
次に父を動かせば、
次にリチャードを従わせれば、
そうすればようやく、王冠に見合う自分になれると思っていた。
けれど今となっては、その「次」はもう来ない。
若ヘンリーは小さく息を吐いた。
「……リチャードは」
そばにいた騎士が顔を上げる。
「はい」
「まだ戦っているのか」
「そのようでございます」
「そうか」
少しだけ笑った。
「あいつらしい」
その言葉に、もう怒りはなかった。
リチャードは強かった。
自分よりずっと現場に立ち、泥にまみれながら、自分の土地を守ってきた。
正直に言えば、”羨ましかった”。
リチャードには、守るべき場所があった。
自分の名前で命令できる場所があった。
その土地を、自分のものだと言えるだけの時間を過ごしてきた。
自分には、それがなかった。
王冠だけはあった。
けれど、その王冠を置くための、自分自身の場所がなかった。
「……あいつは、怒るだろうな」
誰に言うでもなく呟いた。
何に対して怒るのか。
若ヘンリー自身にも、もう分からなかった。
兄が先に死ぬことか。
最後まで争ったことか。
あるいは、そんなことすら気にしないのか。
若ヘンリーは目を閉じた。
ジェフリーの顔も浮かんだ。
自分よりずっと静かで、
何を考えているのか分かりにくくて、
それでも、最後にはこちら側へ残った弟。
母の顔も浮かんだ。
今も遠いイングランドにいる。
自分が死んだと知った時、母は何を思うのだろう。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
それとも。
「……母上」
小さく呟いた。
言葉の続きは出てこなかった。
『会いたかった』
ただ、それだけだった。
しばらくして、若ヘンリーは側に控えていた男を探すように視線を動かした。
「……マーシャル」
ウィリアム・マーシャルがすぐに膝をついた。
「ここにおります」
若ヘンリーは、ほんの少しだけ安心したように目を細めた。
「私は……聖地へ行くと誓った」
「はい」
「だが」
息を整える。
「もう、果たせそうにない」
マーシャルは何も言わない。
若ヘンリーは震える手を胸元へ動かした。
「私の代わりに……」
そこで一度咳き込み、周囲が慌てる。
若ヘンリーは制するようにわずかに手を動かし、続けた。
「私の誓いを、忘れないでくれ」
マーシャルは深く頭を下げた。
「忘れませぬ」
若ヘンリーは目を閉じた。
「頼む」
「必ず」
それで、少し安心した。
王として
息子として
兄として
何もかも中途半端なまま終わるような気がしていた。
けれど、自分が果たせないことの一つを、誰かに託すことはできた。
それだけで十分だった。
聖職者たちの祈りが、再び静かに室内を満たした。
若ヘンリーの呼吸は、少しずつ浅くなっていく。
遠くで鐘が鳴っていた。
その音を聞きながら、若ヘンリーの意識はゆっくりと遠のいていった。
一瞬、昔の光景が浮かんだ。
大勢の観客。
馬の蹄が地面を叩く音。
掲げられた槍。
歓声。
誰かが自分の名を叫んでいる。
あの頃は、世界中が自分を見ていると思っていた。
王冠も、
名声も、
未来も、
すべて自分の前に広がっているのだと、本気で信じていた。
若ヘンリーは、ほんの少し笑った。
今になって思えば
あの瞬間だけは、本当に幸せだったのかもしれない。
胸元の指輪を、最後の力で握る。
父が来なかったことは、悲しい。
それでも父は、自分を赦した。
それだけは確かだった。
「……神よ」
声はほとんど聞こえなかった。
「我が魂を……」
その先は祈りの声に溶けていった。
やがて
指輪を握っていた手から、ゆっくりと力が抜けた。
誰かが名前を呼んだ。
けれど、若ヘンリーが目を開けることはなかった。
1183年6月11日。
若ヘンリー、死去。
二十八歳。
共同国王として戴冠し、騎士たちから愛され、華やかな名声を得ながらも、
最後まで父から独立した王として立つことのできなかった若王は、
冷たい灰の上で静かにその生涯を終えた。
かつて「若き太陽」と呼ばれた男だった。
誰にも看取られなかったわけではない。
誰にも愛されなかったわけでもない。
父にも
母にも
弟たちにも
愛情そのものは、確かにあった。
ただその愛情を、互いに信じる方法だけを……
この家族は、最後までうまく知らなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




