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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第144話:親父が息子の最期を、信じられなかった日

行けるくらいなら最初からこうならなかったのかもな―

リモージュ近郊、国王軍本営。

前線の泥を跳ね上げながら、一騎の早馬が陣営へ駆け込んできた。

馬から転がるように降りた騎士は、そのまま国王の天幕へ急ぐ。


「国王陛下! マルテルより、若王殿下のお言葉をお伝えに参りました!」


軍用地図を前にしていたヘンリー二世が、顔を上げた。


「アンリから?」


その声には、わずかに警戒が混じっていた。

ここ数日、まともな知らせなど一つもない。

和平のために送り出したジェフリーは反乱側へ残り、

リモージュでは自分自身が矢を浴び、危うく命を落としかけた。

長男が今さら何を言ってきても、素直に受け取れる状況ではなかった。


「何だ。停戦の条件か」


「違います」


跪いた騎士の声が震えていた。


「若王殿下は、ご病気にございます」


ヘンリーの表情が止まった。


「病気?」


「高い熱が続き、腹の病も治まりません。

すでに起き上がることも難しく、医師たちも……」


騎士は一度、言葉を詰まらせた。


「残された時は、長くないだろうと」


天幕の中が静かになった。

ヘンリーはしばらく何も言わなかった。


「……アンリが?」


その名を、確かめるように口にした。


「はい」


あの息子が…?


馬上槍試合となれば誰より華やかに笑い、

騎士たちを引き連れて各地を駆け回っていた長男が、

つい先日まで、自分とリチャードを相手に戦を続けていた男が、


『もう起き上がれない』


「若王殿下は、陛下にお会いしたいと願っておられます」


騎士は顔を上げた。


「最後に父上のお顔を見たい。自らの過ちを詫び、赦しをいただきたい、と」


ヘンリーは動かなかった。


「……本人が、そう言ったのか」


「はい」


「自分で?」


「この耳で聞きました」


しばらくして、ヘンリーはマントへ手を伸ばした。


「馬を――」


「陛下」


低い声が、その動きを止めた。


古参の側近だった。


「お待ちください」


ヘンリーが振り向く。


「何だ」


「今、マルテルへ向かわれるのは危険です」


「息子が死にかけていると言っている」


「承知しております」


「ならば退け」


それでも側近は動かなかった。


「ジェフリー殿下を和平のために送り出した結果がどうなったか、

陛下もご存じのはずです。リモージュでは陛下ご自身が矢を浴び、

危うく命を落としかけました」


その言葉に、ヘンリーの顔が強張った。

実際、矢は飛んできた。


父親だから

王だから

話し合いに来たから

そんな事情など、相手には関係なかった。


「若王殿下のお病気を疑っているわけではございません」


側近は慎重に続けた。


「ですが、殿下の周囲には今なお陛下に敵対する者たちがおります。

少数で向かわれれば何が起こるか分かりません」


「では軍を連れて行く」


「それでは見舞いではなく、戦になります」


ヘンリーは黙った。


「……アンリが私を呼んでいるんだぞ」


今度の声は、先ほどよりずっと低かった。


「分かっております」


「死ぬかもしれないと言っている」


誰も答えなかった。


父親なら、行くべきなのだろう。

そんなことはヘンリー自身が一番よく分かっていた。


馬に乗ればいい。

マルテルまで走ればいい。

息子の寝台の前へ行き、顔を見て、赦すと言えばいい。


それだけのことだった。

なのに、足が動かなかった。


もし罠だったら…

もしアンリ本人にその気がなくても、

周囲の諸侯が自分を捕らえるつもりだったら…


もし自分がここで捕虜になれば、あるいは死ねば、

イングランドも、ノルマンディーも、アンジューも、

アキテーヌも、一気に混乱する。


王として考えれば、危険を避ける理由はいくらでもあった。


だが、父親として考えれば………


「……くそ」


ヘンリーは小さく吐き捨てた。

こんな時にまで、王でいなければならない。

そして何より腹立たしいのは、息子を信じ切れない自分がいることだった。


アンリなら、こんなことで父親を罠にかけるはずがない。


そう言い切りたい。

だが、言い切れない。


十年前、一度反乱した。

そして今、また剣を向けている。

その周囲には、自分を敵と見る者がいる。


自分だって、息子たちを全面的に信じてこなかった。

相手もまた、自分を信じてはいない。


父と息子のあいだに積み重なったものが、こんな時になって道を塞いでいる。


「陛下」


若ヘンリーの使者が、もう一度頭を下げた。


「どうか……」


ヘンリーは目を閉じた。

長い沈黙のあと。


「……私は行かない」


騎士の顔から血の気が引いた。


「陛下」


「行けない」


今度は、言い直した。

その声には、怒りも威厳もなかった。


”ただ重かった”


ヘンリーは自分の手を見て、

そして指にはめていた指輪を、ゆっくりと外した。


若ヘンリーも、昔から何度も見てきたはずの指輪だった。

ヘンリーはそれを掌に乗せたまま、しばらく見つめた。


「これを」


使者へ差し出す。


「アンリに渡せ」


騎士は両手で受け取った。


「父は、そなたを赦す、と伝えろ」


ヘンリーは一度、言葉を止めた。


「この指輪を、その証にするように」


「……陛下ご自身は」


ヘンリーは答えず、使者もそれ以上は聞けなかった。

深く頭を下げ、指輪を胸に抱くようにして天幕を出ていく。


馬の蹄の音が遠ざかっていった。

ヘンリーは、その音が聞こえなくなっても動かなかった。


「陛下」


側近が呼ぶ。


返事はない。

先ほどまで指輪があった指を、親指で何度も擦っている。


「……あいつは」


ようやく、ヘンリーが呟いた。


「本当に死ぬのか」


誰にも答えられなかった。


「二十八だぞ」


今度こそ、本当に誰も口を開かなかった。


ヘンリーは軍用地図へ目を落とした。


そこには、

ついさっきまで戦争の相手として見ていた息子のいる場所が記されている。


マルテル。


馬を走らせれば届く。

だが、もう行かないと決めた。


王として考えれば、危険を避ける理由はあった。

軍の指揮官としても、理解できる判断だった。


それでも……

父親として正しかったかどうかは、もう誰にも答えられない。


もしあの知らせが本当なら

自分は今、息子の顔を見る最後の機会を、自分自身で捨てたことになる。


ヘンリーはその考えを振り払うように、地図から顔を逸らした。


だが、一度浮かんだものは消えなかった。


信じたい。

けれど、信じ切れない。


愛している。

けれど、会いに行けない。


十年かけて父と息子のあいだに積み上がったものが、

最後の最後で二人を隔てていた。


そしてヘンリー二世にはまだ分からなかった。

自分が渡したあの指輪が、本当に息子の手へ届いた時

もう二人のあいだには、次の機会など残されていないことを。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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