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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第143話:若王が、自分の終わりを悟った日

しばらく重たい話が続きます

陣幕の外から聞こえていた軍馬の嘶きや兵士たちの声が、

いつの間にかひどく遠くなっていた。

代わりに耳へ届くのは、修道僧たちの低い祈りと、

濡れ布を絞る小さな音だけだった。


若ヘンリーは、天幕の天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


熱は下がらない。

腹の痛みも治まらない。

水を飲んでも身体に残ってくれず、少し身を起こすだけで目の前が暗くなる。


数日前までは、それでも治ると思っていた。


一晩眠れば。

もう一日休めば。

明日には馬に乗れる。


そう思っていた。

だが、今はもう違った。


枕元では、医師たちが小声で話している。

修道僧が何度も祈りを捧げている。

側近たちは、若ヘンリーが目を開けるたびに無理に笑おうとする。


その顔を見ていれば分かる。

戦場で何度も負傷者を見てきた。

助かる者と、助からない者。

人間は、口より先に目で答えを出す。


「……そうか」


掠れた声が漏れた。

側近がすぐに顔を寄せる。


「殿下?」


「いや」


若ヘンリーは首を振った。


もう一度、自分の手を見る。

槍を持ち、馬上で剣を振り、トーナメントで歓声を浴びた手。

今は指を動かすだけでも重い。


「……私の手じゃないみたいだ」


側近は何も言えなかった。

若ヘンリーは少しだけ笑った。

笑ったつもりだったが、声にはならなかった。


「もう、馬には乗れないな」


「そのようなことを仰らず」


「分かるよ」


初めて、側近の言葉を遮らなかった。

分かってしまった。


『自分は、もう戦場へ戻れない』


リチャードと決着をつけることも、

父に自分を認めさせることも、

王冠に見合うだけの何かを手に入れることも。


少なくとも、今まで考えていた形では、もうできない。


「……くだらないな」


若ヘンリーは呟いた。


「殿下?」


「ここまで来て、まだリチャードのことを考えていた」


熱に浮かされながらも、弟が今どこにいるのか気になっていた。


父がどれだけ兵を集めたか。

ジェフリーがこちらに残っているか。

どの諸侯がまだ自分の名を掲げているか。


そればかりだった。


「何をそんなに急いでいたんだろうな」


側近は答えない。


若ヘンリー自身にも、答えはまだ分からなかった。

ただ、十年前からずっと何かを追いかけていた。


父のように、自分で決められる立場

弟たちから軽んじられないだけの力

王冠に見合うだけの土地と収入

自分の名の下に、人が集まるという実感


手に入れたいものはいくつもあった。

だが、どれも完全には手に入らなかった。

そのたびに、次こそはと思った。


次に勝てば、

次に父を動かせば、

次に弟を従わせれば、

そうすれば、ようやく自分の場所ができるのだと。


「……母上は」


若ヘンリーがぽつりと尋ねた。


「はい」


「今も、イングランドに?」


「そのはずでございます」


「そうか」


目を閉じた。


十年前、父に反旗を翻した時、

自分たちは、何かが変わると思っていた。

母も、自分も、弟たちも

父の決めた場所に置かれ続けるのではなく、

それぞれ自分の場所を持てるようになるのだと。


少なくとも、あの頃の自分はそう信じていた。


だが十年経って、母はいまだ自由ではない。


自分は父と戦い、

弟とも戦い、

ジェフリーまでその間を行き来している。


「……母上に会いたかったな」


本当に小さな声だった。

側近は聞こえなかったふりをした。

若ヘンリーも、それ以上は何も言わなかった。


しばらくして、また目を開けた。

今度は、さっきまでとは少し違う目をしていた。

迷っているようで、けれど、何かを決めたようでもあった。


「……おい」


「はい、殿下」


「使者を立てろ」


「どちらへ?」


若ヘンリーは少し息を整えた。


口にするだけでも、まだ少し躊躇があった。


最後まで追いかけ

最後まで逆らい

最後まで認めてほしかった相手


「父上のところへ」


側近が息を止めた。

若ヘンリーは目を閉じた。


「私は……もう、長くないらしい」


初めて、自分の口でそれを言った。

言ってしまえば、不思議と怖さよりも静けさの方が勝った。


「父上に伝えてくれ」


声が震えた。

それでも続けた。


「会いたい、と」


側近の目が揺れる。


「最後に、父上に会いたい」


王としてでも、

反乱軍の旗印としてでも、

土地を求める長男としてでもなく、


ただ、”息子として”。


「できるなら……父上の口から、赦すと言ってほしい」


そこまで言うと、若ヘンリーは力尽きたように枕へ沈んだ。


側近は深く頭を下げた。


「必ず、お伝えいたします」


「……頼む」


若ヘンリーは目を閉じた。


使者が天幕を飛び出していく音がする。


今度ばかりは、戦況を知らせるためではない。

条件を伝えるためでもない。

父と息子のあいだに残された時間が、もうほとんどないことを伝えるためだった。


若ヘンリーは、遠ざかっていく馬の蹄の音を聞きながら、かすかに唇を動かした。


「……父上」


その声が届くかどうかは、まだ誰にも分からなかった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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