第142話:若王の熱が、下がらない
ここから数話、重い展開になります。(´・ω:;.:...
1183年初夏、マルテル。
湿った空気がまとわりつくような午後、
若ヘンリーは寝台の上で浅い息を繰り返していた。
額には濡らした布が置かれている。取り替えたばかりだというのに、
もう温くなり始めていた。
「殿下、少しでも水を」
側近の騎士が差し出した杯を、若ヘンリーは鬱陶しそうに見た。
「あとでいい。それより報告は」
「殿下」
「リチャードはどうしている。父上の軍はどこまで来た。
ジェフリーからは何か?」
声は掠れていた。
それでも頭の中にあるのは、戦のことばかりだった。
「戦況に大きな変化はございません。ですから今は、どうかお休みください」
「休んでいる場合か」
若ヘンリーは肘をつき、起き上がろうとした。
その瞬間、腹の奥に強い痛みが走った。
「……っ」
顔を歪め、そのまま寝台へ身体を戻す。
側近が慌てて手を伸ばした。
「殿下!」
「大げさだ。少し腹を壊しただけだ」
「しかし、熱も下がっておりません」
「疲れているだけだろう」
本人は、本気でそう考えていた。
ここしばらく休む暇などなかった。
行軍が続き、落ち着いて食事を取ることすら少ない。
気候も違えば、水も違う。父と弟を相手にした戦がいつ終わるのかも分からず、
昼も夜も使者と諸侯が出入りしていた。
身体を壊す理由など、いくらでも思いつく。
そして若ヘンリーは、まだ二十八歳だった。
これまで多少の熱や怪我なら、休めば治った。
今回だって同じだと思っていた。
「……リチャードは」
若ヘンリーは目を閉じたまま呟いた。
「今も動いているんだろう」
「恐らくは」
「なら、私だけ寝ているわけにはいかない」
弟は父の援軍を得た。
ただでさえアキテーヌではリチャードの方が土地を知っている。
そこへ父まで加わった以上、自分が退けば、それで終わる。
『また同じだ』
王冠を戴いているのに、実際に何かを決めるのは父。
領地を持ち、軍を率い、諸侯を従えるのは弟。
そして自分は、華やかな冠だけを与えられた長男として扱われる。
「鎧を」
側近が耳を疑ったように顔を上げた。
「……何と?」
「鎧を持ってこい。少しでも兵の前へ出る」
「無理でございます」
「無理かどうかは私が決める」
若ヘンリーは再び身体を起こした。
今度は寝台の縁まで足を下ろすことができた。
だが、立ち上がろうとした瞬間、膝から力が抜けた。
「殿下!」
側近が咄嗟に支えた。
若ヘンリー自身も、何が起きたのか理解できない顔をしていた。
足に力が入らない。
身体がひどく重い。
息を整えようとしても、胸の奥まで熱がこもっているようだった。
「……おかしいな」
その一言だけは、妙に素直だった。
「昨日は、まだ歩けたんだが」
側近は答えなかった。
若ヘンリーを寝台へ戻しながら、その身体に触れた手が止まった。
熱い。
昨日より明らかに熱が高い。
それだけではない。
ほとんど食事が取れていない。
水を口にしても、すぐに腹を下す。
それが一日、二日と続いている。
「……医師を」
「もう診ただろう」
「もう一度呼びます」
「同じことを言われるだけだ」
「それでもです」
若ヘンリーは何か言い返そうとしたが、途中で諦めた。
目を閉じる。
その顔から、いつもの勢いが少しずつ失われていた。
「……ジェフリーは」
「殿下?」
「まだ、こちらにいるか」
「はい」
「そうか」
それだけ確認すると、若ヘンリーはしばらく黙った。
父はリチャードの側へ行った。
ジェフリーはこちらに残った。
周囲には、自分の名を掲げて戦う諸侯がいる。
それなのに、肝心の自分だけが寝台から起き上がれない。
「……格好がつかないな」
弱々しく笑った。
側近は何も言えなかった。
笑って返していいのかどうか、もう分からなかった。
やがて呼ばれた医師が入り、寝台の脇へ座った。
いくつか問いかけ、脈を取り、腹の具合を確かめる。
その表情が少しずつ険しくなっていくのを、側近たちは黙って見ていた。
若ヘンリーだけが、不機嫌そうに天幕の天井を見上げている。
「何日寝ていればいい」
医師はすぐには答えなかった。
「殿下。今は日数をお約束できる状態ではございません」
「大げさだな」
「少なくとも、馬に乗れる状態ではありません」
若ヘンリーは舌打ちした。
「リチャードなら乗るぞ」
「リチャード殿下のお話はしておりません」
「分かっている」
そう言いながらも、その名前を出さずにはいられない。
『弟』
自分より先に実際の領地を持ち、公爵として戦い続けてきた男。
父親に反抗しながら、必要とあればその父親へ援軍を求めることもできる男。
若ヘンリーには、それが悔しかった。
だからまだ終われない。
まだ何も決着していない。
父にも。
リチャードにも。
”自分は王冠だけの男ではないと、まだ示していない”
「少し眠れば治る」
誰に聞かせるでもなく、若ヘンリーは言った。
「明日には起きる」
側近たちは返事をしなかった。
天幕の外では、いつもと変わらず兵たちの声が聞こえている。
馬の蹄。
武具の触れ合う音。
伝令が走る声。
戦は止まっていない。
だが、その中心にいるはずだった若王だけが、
そこから少しずつ切り離され始めていた。
夜になっても、熱は下がらなかった。
むしろ身体はさらに熱を持ち、何度水を飲んでも喉の渇きは消えなかった。
若ヘンリーは時折目を覚まし、そのたびに戦況を聞いた。
そして、まだ自分は戻れると繰り返した。
「……明日は」
掠れた声が漏れる。
「明日には……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
しばらくして
ほとんど眠りに落ちかけた若ヘンリーの唇が、わずかに動いた。
「……父上」
怒りではなかった。
責める声でもなかった。
ただ、熱に浮かされた人間が無意識に零した、ごく小さな呼び声だった。
そばにいた騎士は、それを聞いても何も言わなかった。
若王の熱は、その夜も下がらなかった。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




