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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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143/180

第142話:若王の熱が、下がらない

ここから数話、重い展開になります。(´・ω:;.:...

1183年初夏、マルテル。

湿った空気がまとわりつくような午後、

若ヘンリーは寝台の上で浅い息を繰り返していた。


額には濡らした布が置かれている。取り替えたばかりだというのに、

もう温くなり始めていた。


「殿下、少しでも水を」


側近の騎士が差し出した杯を、若ヘンリーは鬱陶しそうに見た。


「あとでいい。それより報告は」


「殿下」


「リチャードはどうしている。父上の軍はどこまで来た。

ジェフリーからは何か?」


声は掠れていた。

それでも頭の中にあるのは、戦のことばかりだった。


「戦況に大きな変化はございません。ですから今は、どうかお休みください」


「休んでいる場合か」


若ヘンリーは肘をつき、起き上がろうとした。

その瞬間、腹の奥に強い痛みが走った。


「……っ」


顔を歪め、そのまま寝台へ身体を戻す。

側近が慌てて手を伸ばした。


「殿下!」


「大げさだ。少し腹を壊しただけだ」


「しかし、熱も下がっておりません」


「疲れているだけだろう」


本人は、本気でそう考えていた。


ここしばらく休む暇などなかった。

行軍が続き、落ち着いて食事を取ることすら少ない。

気候も違えば、水も違う。父と弟を相手にした戦がいつ終わるのかも分からず、

昼も夜も使者と諸侯が出入りしていた。


身体を壊す理由など、いくらでも思いつく。


そして若ヘンリーは、まだ二十八歳だった。

これまで多少の熱や怪我なら、休めば治った。


今回だって同じだと思っていた。


「……リチャードは」


若ヘンリーは目を閉じたまま呟いた。


「今も動いているんだろう」


「恐らくは」


「なら、私だけ寝ているわけにはいかない」


弟は父の援軍を得た。

ただでさえアキテーヌではリチャードの方が土地を知っている。

そこへ父まで加わった以上、自分が退けば、それで終わる。


『また同じだ』


王冠を戴いているのに、実際に何かを決めるのは父。

領地を持ち、軍を率い、諸侯を従えるのは弟。

そして自分は、華やかな冠だけを与えられた長男として扱われる。


「鎧を」


側近が耳を疑ったように顔を上げた。


「……何と?」


「鎧を持ってこい。少しでも兵の前へ出る」


「無理でございます」


「無理かどうかは私が決める」


若ヘンリーは再び身体を起こした。

今度は寝台の縁まで足を下ろすことができた。

だが、立ち上がろうとした瞬間、膝から力が抜けた。


「殿下!」


側近が咄嗟に支えた。


若ヘンリー自身も、何が起きたのか理解できない顔をしていた。


足に力が入らない。

身体がひどく重い。

息を整えようとしても、胸の奥まで熱がこもっているようだった。


「……おかしいな」


その一言だけは、妙に素直だった。


「昨日は、まだ歩けたんだが」


側近は答えなかった。

若ヘンリーを寝台へ戻しながら、その身体に触れた手が止まった。


熱い。

昨日より明らかに熱が高い。


それだけではない。

ほとんど食事が取れていない。

水を口にしても、すぐに腹を下す。

それが一日、二日と続いている。


「……医師を」


「もう診ただろう」


「もう一度呼びます」


「同じことを言われるだけだ」


「それでもです」


若ヘンリーは何か言い返そうとしたが、途中で諦めた。


目を閉じる。

その顔から、いつもの勢いが少しずつ失われていた。


「……ジェフリーは」


「殿下?」


「まだ、こちらにいるか」


「はい」


「そうか」


それだけ確認すると、若ヘンリーはしばらく黙った。


父はリチャードの側へ行った。

ジェフリーはこちらに残った。

周囲には、自分の名を掲げて戦う諸侯がいる。

それなのに、肝心の自分だけが寝台から起き上がれない。


「……格好がつかないな」


弱々しく笑った。

側近は何も言えなかった。

笑って返していいのかどうか、もう分からなかった。


やがて呼ばれた医師が入り、寝台の脇へ座った。

いくつか問いかけ、脈を取り、腹の具合を確かめる。

その表情が少しずつ険しくなっていくのを、側近たちは黙って見ていた。


若ヘンリーだけが、不機嫌そうに天幕の天井を見上げている。


「何日寝ていればいい」


医師はすぐには答えなかった。


「殿下。今は日数をお約束できる状態ではございません」


「大げさだな」


「少なくとも、馬に乗れる状態ではありません」


若ヘンリーは舌打ちした。


「リチャードなら乗るぞ」


「リチャード殿下のお話はしておりません」


「分かっている」


そう言いながらも、その名前を出さずにはいられない。


『弟(リチャード)』


自分より先に実際の領地を持ち、公爵として戦い続けてきた男。

父親に反抗しながら、必要とあればその父親へ援軍を求めることもできる男。


若ヘンリーには、それが悔しかった。


だからまだ終われない。

まだ何も決着していない。


父にも。

リチャードにも。

”自分は王冠だけの男ではないと、まだ示していない”


「少し眠れば治る」


誰に聞かせるでもなく、若ヘンリーは言った。


「明日には起きる」


側近たちは返事をしなかった。


天幕の外では、いつもと変わらず兵たちの声が聞こえている。

馬の蹄。

武具の触れ合う音。

伝令が走る声。


戦は止まっていない。

だが、その中心にいるはずだった若王だけが、

そこから少しずつ切り離され始めていた。


夜になっても、熱は下がらなかった。

むしろ身体はさらに熱を持ち、何度水を飲んでも喉の渇きは消えなかった。


若ヘンリーは時折目を覚まし、そのたびに戦況を聞いた。

そして、まだ自分は戻れると繰り返した。


「……明日は」


掠れた声が漏れる。


「明日には……」


そこまで言って、言葉が途切れた。


しばらくして

ほとんど眠りに落ちかけた若ヘンリーの唇が、わずかに動いた。


「……父上」


怒りではなかった。

責める声でもなかった。

ただ、熱に浮かされた人間が無意識に零した、ごく小さな呼び声だった。

そばにいた騎士は、それを聞いても何も言わなかった。


若王の熱は、その夜も下がらなかった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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