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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第133話:末娘の嫁ぎ先、文化圏がバグりすぎていて母も答えに困る件

ヘンリーとの末娘、ジョーン・オブ・イングランドですね


長女マリーの「領地を普通に回しています」報告。

次女アリスの「夫がまた馬を欲しがっています。止めました」報告。


そして、その数日後。

オールド・サラムの私のところへ、今度はさらに遠い場所から手紙が回ってきた。


差出人を見て、私は思わず姿勢を正した。


「ジョーンだ」


ヘンリーとの間に生まれた末娘。

まだ十代半ばのあの子は、今や遠いシチリア王国で王妃をやっている。


「元気かしらねぇ……」


上の娘たちとは違って、ジョーンとはポワティエで過ごした記憶がある。

小さかった頃の顔も覚えている。

だから、シチリアへ嫁いでいった時は、そりゃあ心配した。


何しろ遠い。

とにかく遠い。

私の世界史八点の知識では、シチリアなんて

「イタリアの長靴のつま先にある三角形」くらいしか情報がない。


そこへ娘を嫁に出したのだ。

母親として不安にならない方がおかしい。


私は封蝋を外し、手紙を広げた。


最初の数行を読み。

少し止まった。

また読む。


「……何これ」


侍女長がこちらを見る。


「いかがなさいましたか」


「いや、ちょっと待って。ジョーンの嫁ぎ先、私が思ってたヨーロッパと違う」


「は?」


私は手紙を読み上げた。


『母上、お元気でいらっしゃいますか。

パレルモへ来てから何年か経ちましたが、私は未だに

この宮廷がよく分かりません。

昨日など、一日のうちにラテン語とギリシャ語とアラビア語を聞きました。

最初は誰が誰に話しているのか全く分かりませんでした。

書記官の一人がアラビア語で話したあと、別の者がギリシャ語で返し、

その内容を夫が私にも分かる言葉で説明してくれました。

ここでは、一つの言葉しか話せない方が珍しいのでしょうか』


「…………」


私は手紙から顔を上げた。


「ねえ」


「はい」


「うちの娘、私より世界史の勉強してない?」


「現地で実地研修中なのでは」


「十五、六歳の娘に現地体験で世界史の点数抜かれてるんだけど」


非常に遺憾である。


続きを読む。


『宮殿も不思議です。

中庭には水が流れ、壁には細かな模様や金色の絵があり、

こちらの日差しはイングランドとは比べものになりません。

夫はこの宮殿を大変気に入っているようですが、私は最初、

どこを見ればよいのか分からず首が疲れました』


「分かる」


「王妃殿下?」


「情報量が多い建物って疲れるのよ」


さらに続く。


『食事にも、未だに驚かされます。

見たことのない香辛料がたくさん使われています。

甘いのか辛いのか分からない料理もあります。

果物も豊富です。

とても美味しいものもあります。

何が入っているのか聞かない方が美味しく食べられるものもあります』


私は吹き出した。


「ジョーン、順応してるじゃないの!」


初めは戸惑っていたはずなのに、すでに「聞かない方が幸せ」

という境地まで到達している。

成長が早い。


『それから、宮廷には私の知らない習慣が多すぎます。

アラビア語を話す役人もおりますし、ギリシャ系の者もおります。

夫は「ここでは昔から、いろいろな人々が暮らしている」と申します。

私は王妃なのですから慣れなければと思いますが、

時々、自分がどこの国に嫁いできたのか分からなくなります』


私は椅子の背にもたれた。


「いや、それは母ちゃんにも分からん」


「王妃殿下」


「だって何なのよ、その宮廷。ノルマン人が王様やってて、

ギリシャ語とアラビア語が飛び交って、建物は南国仕様で、食卓には謎の香辛料って」


頭の中にある「中世ヨーロッパ」の絵から、完全にはみ出している。


「アラビアンナイトと騎士物語を混ぜて、さらに地中海料理をぶち込んだみたいになってるじゃない!」


侍女長は困ったように微笑んだ。


「豊かな土地なのでございましょう」


「豊かすぎて解像度についていけないのよ!」


世界史八点には荷が重い。

娘の嫁ぎ先ですら荷が重い。

この世界、どこへ行っても知らないことしかない。


そして手紙の最後には、さらに可愛らしい追伸がついていた。


『追伸。

こちらでは暑い日が多いため、軽くて薄い絹の衣を勧められます。

確かに涼しいのですが、着慣れないので落ち着きません。

夫は「似合っている」と申します。

母上は、こういう時どうすればよいと思われますか』


私は手紙を置いた。


「……侍女長」


「はい」


「可愛い」


「左様でございますね」


「めちゃくちゃ可愛い」


なんだその相談。


長女は領地を回している。

次女は夫の馬購入計画を潰している。

末娘は南国で

「この服スースーするんだけど、どうしたらいい?」

と母親に相談している。


「同じ娘なのに方向性がバラバラすぎるでしょ」


とはいえ、夫が優しくしてくれているらしいことには、素直に安心した。


知らない土地。

知らない言葉。

知らない習慣。

まだ若い娘がそんな場所で暮らすのは、楽なことではないはずだ。


それでも手紙からは、怯えているというより、

戸惑いながら一生懸命理解しようとしている様子が伝わってくる。


「……まあ、元気そうならいいか」


私は少し笑った。

それから、新しい羊皮紙を引き寄せた。


「返事を書くわ」


「はい」


「まず、『分からないことは遠慮せず聞きなさい』。

分かったふりして後で事故るのが一番まずいから」


侍女長が頷く。


「それから、『食べ物は無理して全部好きになる必要ない。

美味しいと思ったものだけ覚えときなさい』」


「はい」


「服も同じ。涼しくて楽なら着ればいいし、落ち着かないなら

別のものを頼みなさい。王妃なんだから、そのくらい言っていいのよ」


そこまで書かせて、私は少し考えた。


「あと、日差しが強いなら布か何かで顔を守りなさいって」


「日差しでございますか」


「十年後に後悔するから」


「……経験がおありで?」


「前世の話よ」


侍女長は深く追及しなかった。

賢明である。


私はさらに続けた。


「あと、現地の言葉を少しずつ覚えるようにって書いて。

全部は無理でも、挨拶とお礼くらい分かれば絶対便利だから」


「承知いたしました」


「それから、美味しい果物があるなら何が美味しかったか教えてって」


「王妃殿下」


「重要よ!」


遠い南の国で、娘が何を食べているのかくらい知りたい。

オリーブだの柑橘だの、こっちでは滅多に見ないものが普通にあるという。


非常に羨ましい。


「……シチリアかぁ」


私は改めて手紙を眺めた。


長女はシャンパーニュ。

次女はブロワ。

末娘はシチリア。


改めて考えると、我が家の娘たちはヨーロッパ中へ散らばっている。


それぞれ違う場所で、

違う言葉を聞いて、

違う男と結婚して、

違う苦労をしている。


それでも、ちゃんとそこで生きている。


「娘って、強いわねぇ」


ぽつりと言うと、侍女長が微笑んだ。


「王妃殿下のお子でございますから」


「それ、三日連続で聞いてるわ」


「三日連続で事実なのでございます」


「うるさいわね」


思わず笑った。


フランスで帳簿と戦う娘。

夫の浪漫出費を止める娘。

そして南の島で、多言語宮廷と謎の香辛料に囲まれている娘。


誰一人、私の思った通りの人生なんて歩いていない。


当たり前だ。

私の子どもだからといって、私の人生の続きではない。


それぞれ勝手に遠くまで行って、勝手に逞しくなっている。


「……よし」


私は返事の最後に、ひとこと付け加えた。


『追伸。美味しいものがあったら、名前だけでも教えなさい。母も食べたい。』


海の向こうの娘から届いた異世界報告に、久しぶりに腹の底から笑った午後だった。


なお、世界史八点ちゃんはこの日初めて、

シチリアという土地が

「長靴の先の三角形」だけでは到底説明できない場所だと知ったのである。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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