第127話:十五歳の新王、敵を倒すより待つことを覚える
フィリップは待つ。( ˘ω˘ )
パリ、シテ島のフランス王宮。
重厚な執務室の机には、かつて父ルイ七世が長い年月にわたって
目を通してきた羊皮紙の束が積み上がっていた。
その中央に座っているのは、十五歳になったばかりの新王フィリップ二世である。
昨年、ランスで王冠を戴いた時には、聖歌が響き、諸侯が頭を下げ、
王というものがもっと華やかな仕事に思えた。
だが、父が亡くなり、本当に自分一人で国を背負う立場になってみれば、
現実はまったく違った。
「……思っていたより、大変だな」
誰もいないのを確認してから、フィリップは机に肘をついて小さく息を吐いた。
まず、周囲にいる諸侯たちは、ほとんどが自分より遥かに年上だった。
シャンパーニュ伯も、フランドル伯も、ブルゴーニュ公も、
それぞれ広い領地と長い経験を持っている。
十五歳の少年王へ表向きは恭しく礼を取りながら、
腹の中では何を考えているのか分からない。
王冠を被ったからといって、急に誰もが素直に言うことを聞くわけではないのだ。
さらに厄介なのが、地図だった。
フィリップは机の上に広げられた羊皮紙へ目を落とした。
パリを中心としたフランス王の直轄領は、決して大きくない。
その周囲には、諸侯たちの領地が広がっている。
そして西から南にかけては、
ノルマンディー、メーヌ、アンジュー、ポワトゥー、アキテーヌまで、
プランタジネット家の巨大な勢力圏が連なっていた。
「……これを父上は、何十年も相手にしていたのか」
思わず呟く。
正面から見れば、あまりにも大きい。
兵力も、
財力も、
土地の広さも、
何より、ヘンリー二世自身が強い。
幼い頃から何度も聞かされてきた。
軍を動かすのが速い。
決断も速い。
広い領地を自分の足で巡り、反乱が起きればすぐに押さえ込む。
父ルイが何度も苦労した相手だった。
フィリップは椅子の背へ体を預けた。
「父上、よくこれ相手にしてたな……」
心からそう思う。
そこへ、古参の侍従が書状の束を抱えて入ってきた。
「陛下。ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌ方面の動向について、
新しい報告が届いております」
フィリップは身を起こした。
「ヘンリー王が何か動いた?」
「いえ。今のところ、
我が国へ対して大きな軍事行動を起こす様子はございません」
「そう」
少しだけ肩の力が抜ける。
侍従は続けた。
「ただし、王家内部の不満については、
依然として解消されたとは言い難いようでございます」
フィリップの目が細くなった。
「どういうこと?」
「若王アンリ殿は、今なおご自身の実権と収入について不満を
抱えておられるとのこと。
リチャード殿はアキテーヌで独自の基盤を固めつつあり、
ジェフリー殿もブルターニュで自身の立場を築いております」
「ジョン殿は?」
「ヘンリー王のお側におられることが多いようです」
フィリップは黙って地図を見た。
「……つまり」
ゆっくりと言う。
「前の反乱が終わっても、根っこのところは何も変わってないんだ」
侍従が少し考えてから頷いた。
「少なくとも、すべてが円満に解決したとは申し上げにくいかと」
フィリップは指先で机を軽く叩いた。
・父親は、依然として最終的な権限を手放さない。
・長男は、自分が王であるのに十分な仕事がないと感じている。
・次男は、アキテーヌで実際に軍を動かし、
領主たちを従わせ、自分の足場を固めている。
・三男はブルターニュで、自分自身の立場を持つ。
・末っ子は父親のそばにいる。
それぞれが別の場所にいて。
それぞれが別のものを欲しがっている。
「……あの家、まだ危ないんだな」
フィリップは小さく呟いた。
侍従が慎重に答える。
「広い領地を持つ家でございますから、事情も複雑なのでしょう」
「うん」
フィリップは素直に頷いた。
少し前までなら、強い相手をどう倒すか。
そんなことばかり考えていたかもしれない。
だが
今の自分には、他人の家を壊すことより先に、
やるべきことが山ほどある。
国内の諸侯
税収
都市との関係
教会
王領の管理
自分の足元ですら、まだ十分に固まっていない。
そこを放り出して、ヘンリー二世と真正面から争う余裕などない。
「……こちらから無理に仕掛ける必要はないね」
侍従が顔を上げる。
「と、申されますと」
「ヘンリー王は強い。今の僕が正面から戦っても、得をするとは思えない」
フィリップは地図の上のアンジュー領を眺めた。
「だったら、今は自分の国を整える方がいい」
「ご賢明かと」
「それに」
フィリップは少しだけ笑った。
「あの家は、僕が何もしなくても揉める時は揉めるでしょう?」
侍従は返事に困ったように黙った。
フィリップは肩をすくめた。
「別に、揉めてほしいわけじゃないよ」
一応、そう付け加える。
「ただ、もしまた向こうで何か起きた時に、こっちまで弱っていたら困る。
だから、その時に備えて、今は自分のところをちゃんとしておきたいだけ」
侍従は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
フィリップは手元の書類を引き寄せた。
父は、アンジュー家と長い間争ってきた。
勝ったことも、
負けたことも、
譲ったこともある。
その全部を見てきたからこそ、フィリップには一つだけ分かることがあった。
大きな相手だからといって、いつも正面から殴る必要はない。
相手が強いなら、自分まで強くなるまで待てばいい。
相手の中に亀裂があるなら、
今すぐそこへ手を入れる必要もない。
亀裂が本当に広がった時に
その時、自分が立っていられるようにしておけばいい。
「まずは、こっちだな」
フィリップは新しい書類を開いた。
「パリ周辺の収入と、フランドル伯との交渉について確認しよう」
「はい、陛下」
十五歳の新王は、焦って大きな敵へ飛びかかることをしなかった。
”まだ、自分には早い”
それを分かっていたからこそ、今は待つ。
自分の国を整え
自分自身が王として強くなり
そのうえで
いつか向こうが本当に崩れ始めた時に、どう動くかを考えればいい。
フィリップ二世は、この時まだアンジュー家を壊そうとしていたわけではない。
ただ
あの巨大な家にも、綺麗には埋まっていない亀裂があることだけは、
"もう知っていた"。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




