第126話:母上のいないアキテーヌで、息子がすっかり公爵になっていました
リチャードと言ったらアキテーヌですもんねぇ
ポワティエ、アキテーヌ公宮。
南から吹き込む風が中庭の葡萄の葉を揺らし、その向こうでは馬の嘶きと、
書記官たちの慌ただしい声が途切れることなく響いていた。
かつてアリエノールが過ごした宮廷は、今やずいぶん違う顔をしている。
「公爵閣下、ボルドーの商人たちから関税について陳情が届いております」
「リチャード様。リモージュ近郊で、
また領主同士が境界を巡って揉めております」
「先月服従した領主ですが、城の扱いについて再度ご裁可を」
次々と差し出される羊皮紙の山を前に、二十代前半になったリチャードは
眉間を揉みながら、一枚ずつ内容を確認していた。
「だから、一度に三人で喋るなと言っているだろう。順番に持ってこい」
低い声が飛ぶと、周囲の書記官たちは一斉に口を閉じた。
数年前、反乱が終わったばかりの頃のリチャードは、
自分でもかなり混乱していた。
少し前まで父親に反抗していた側だったのに、その直後には父親の命令で
反乱諸侯を鎮圧する側へ回されたのだから、本人としても
「俺はいったい何をしているんだ」と言いたくなる立場だった。
けれど、人間というものは恐ろしいものである。
反乱した城を攻め、抵抗する領主を屈服させ、必要なら城を壊し、
別の場所では条件を提示して服従を受け入れる。
軍を動かした翌日には帳簿を見て、その次の日には領主同士の揉め事を裁き、
さらにその翌日には商人から税の相談を持ち込まれる。
そんな生活を何年も続けていれば、嫌でも領主になる。
「次。ボルドーの件を」
「はっ」
書記官が慌てて羊皮紙を差し出した。
もはや宮廷の人間たちも、
彼を単なる「アリエノール様の息子」とは見ていない。
アリエノールは帰ってこない。
ヘンリー二世も、この土地に常駐するわけではない。
だが、リチャードはいる。
反乱が起きれば馬に乗って現れ、揉め事が起きれば裁定し、
税の話になれば帳簿を見る。
怒らせればものすごく怖いが、それでも、この土地にいる。
そうして年月が経つうちに、
アキテーヌの人々の中で認識は少しずつ変わっていった。
『アリエノールの息子から、自分たちのアキテーヌ公へ』
リチャードは書類へ目を通しながら、ふと広間の奥へ視線を向けた。
母がいた頃から使われている椅子がある。
最初は、母が帰ってくるまでのつもりだった。
母親がいない間、この土地を荒らされないように守る。
ただそれだけだった。
けれど今では、この土地のことを考えない日はない。
どの領主が信用ならないか。どこで今年の葡萄がよく採れたか。
どの街道を直せば商人が増えるか。
どの城を残しておけば、次に反乱が起きた時に面倒なことになるか。
そういうことを、自分で覚え、自分で失敗し、自分でどうにかしてきた。
「……母上が帰ってきたら」
リチャードは小さく呟き、その先を少しだけ考えた。
”帰ってきてほしい”
それは今でも変わらない。
ただ、昔のように「母上の土地を預かっているだけ」
と言い切れるかと聞かれると、少しだけ答えに迷うようになっていた。
自分がここで血を流し、汗をかき、何年も守ってきたという自負が、
いつの間にか心の中へしっかり根を下ろしていたからだ。
一方その頃。
海を隔てたイングランド、オールド・サラム。
私は盛大に頭を抱えていた。
「アキテーヌが心配!!」
「王妃殿下」
「だって心配なのよ!」
侍女長が困った顔でこちらを見ている。
私は椅子に座ったまま、焼いたパンへ蜂蜜をたっぷり塗った。
心配で食欲がない、というほどではない。
そこは別腹である。
「ルイまで死んで、外の世界はどんどん進んでるのよ。
なのにアキテーヌのことは、まともな情報なんてほとんど入ってこないし」
パンをかじりながら、私は眉間に皺を寄せた。
「リチャード、大丈夫なのかしら」
「リチャード殿下でございますか」
「そうよ。あの子、妙に真面目なのよ」
侍女長は少し考えた。
「……そうでございましょうか」
「何よその間」
「いえ、何でもございません」
私は気にせず続けた。
「絶対、父親から面倒な仕事を山ほど押しつけられてるでしょ。
アキテーヌの諸侯なんて、みんな好き勝手するし、
揉め事は多いし、税金は取らなきゃいけないし」
頭の中に、可哀想な息子の姿が浮かんだ。
『母上、領主たちが言うことを聞いてくれません』
『母上、帳簿の数字が合いません』
『母上、もう帰ってきてください』
私は胸を押さえた。
「ああ、不憫」
「王妃殿下」
「絶対今ごろ、ポワティエの隅で膝抱えてるわよ。
お母さんが領主の脅し方と、帳簿の誤魔化しを見抜く方法を
教えてあげないと」
「後者はともかく、前者はすでに十分ご存じかと」
「え?」
侍女長が一枚の羊皮紙を差し出した。
「最近、商人を介して届いたアキテーヌ方面の話がございますが」
私は即座に受け取った。
「ほら! やっぱり何か大変なことが――」
読み始めて、黙った。
もう一度、最初から読み直す。
それでも内容は変わらなかった。
リチャードが反抗的な領主を攻めた。
勝った。
別の城も落とした。
抵抗の拠点になりそうな城は、再利用できないよう処理した。
残った領主たちは、見るからに態度を改めた。
さらに別の噂では、リチャードの軍事行動の速さと容赦のなさを恐れて、
正面から逆らいたがる者が目に見えて減っているらしい。
「…………」
私は羊皮紙から顔を上げた。
「ねえ、侍女長」
「はい」
「私の可愛いリチャード、現地でゴリラになってない?」
侍女長が返答に困った顔をした。
「大変、勇猛にお育ちでございます」
「言い方!!」
私はもう一度、羊皮紙へ目を落とした。
どう読んでも、『母上ぇ』とは言っていない。
むしろ、『文句があるなら出てこい』側である。
「ちょっと待って。私が心配してる数年間で、何があったの?」
「公爵として経験を積まれたのでしょう」
「積みすぎじゃない!?」
こっちはずっと、母親不在で可哀想な息子が苦労していると思っていた。
もちろん、実際に苦労はしているのだろう。
ただし、その苦労によって弱るどころか、順調に強くなっている。
「誰がそこまで逞しくなれと言ったのよ……」
「良いことではございませんか」
「良いことなんだけど!」
領地は荒らされていない。
息子は無事。
しかも、どうやらちゃんと統治までしている。
母親としては喜ぶべき話である。
喜ぶべきなのだが、何となく釈然としない。
「私が帰ったらさ」
「はい」
「『母上、おかえりなさい』じゃなくて、
『そこ、俺の椅子だから』とか言われない?」
侍女長は一瞬だけ黙った。
「……おそらく、そのようなことは」
「今の間は何!?」
「何でもございません」
私はじっと羊皮紙を見つめた。
最初は、私のアキテーヌだった。
私はそこを「帰るまで守っていて」とリチャードに任せたつもりだった。
けれど、何年も現地で領主たちと向き合い、
軍を率い、土地を回してきたのはリチャードだ。
そう考えると、少しだけ嫌な想像が浮かぶ。
「……まさか」
「はい?」
「実家に帰ったら、息子に実家乗っ取られてるとかないわよね?」
「王妃殿下」
「だってあるじゃない。親が留守の間に子どもが部屋使って、
帰ってきたら家具の配置が全部変わってるやつ」
「規模がだいぶ違います」
「土地一個分よ!?」
侍女長は何も言わなかった。
私は羊皮紙を机へ置き、残っていたパンへもう一度蜂蜜を塗った。
少なくとも、アキテーヌはまだある。リチャードも生きているし、
私が思っていたより遥かに元気で、遥かに強く、そして何より、
もう立派に”アキテーヌ公”になっていた。
「……頼もしくなったわねぇ」
私は少しだけ笑ったあと、パンを一口かじった。
「頼もしすぎるのよ」
海の向こうでは、母親がいないことを嘆く暇もなく働き続けた息子が、
いつの間にか母の留守を預かる少年ではなく、
自分の足でアキテーヌに立つ一人の領主へと育っていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




