第125話:元旦那が亡くなりました(※時間の針が、急に音を立てて進む)
今回はしんみりと。
1180年、秋の気配が深まるオールド・サラム城塞。
暖炉には薪がくべられ、静かに爆ぜる音だけが、
広い石造りの部屋に響いていた。
私は窓辺の机で、ぬるくなりかけた茶を飲みながら、刺繍の続きをしていた。
そこへ侍女長が、一枚の羊皮紙を手にして入ってくる。
いつもより歩みが遅い。
顔つきも、少し違った。
「……王妃殿下」
「何?」
私は針を止めずに答えた。
「またパリで誰か借金でもした?」
ここ最近、届く話といえば息子の借金だの、父親との揉め事だの、
誰がどこの城をどうしただの、聞いているだけで頭が痛くなるものばかりだった。
だが、侍女長は笑わなかった。
静かに首を横へ振る。
「フランス国王、ルイ七世陛下が亡くなられました」
「…………」
針を持った手が止まった。
少し遅れて、意味が頭へ入ってくる。
『ルイが死んだ』
「……そう」
それしか出なかった。
侍女長も、それ以上は何も言わない。
私は手元の刺繍へ視線を落としたまま、しばらく動けなかった。
大反乱のあと、ルイが体調を崩しているらしいという話は聞いていた。
年齢を考えれば、別に不思議なことではない。
それでも、死ぬとは思っていなかった。
「……何歳だった?」
「六十ほどであったかと」
「六十……」
私はゆっくり顔を上げた。
「私と、そんなに変わらないじゃない」
その言葉を口にした瞬間、
妙に寒く感じた。
暖炉には火がある。
部屋だって暖かい。
なのに、足元から冷たいものが這い上がってくるような感覚がした。
ルイは、私よりほんの少し年上だった。
それだけだ。
同じ時代に生まれ。
同じくらいの年月を生き。
若い頃から、ずっと知っている。
そして、”その人間が死んだ”。
鏡を見れば、私の髪にも白いものが増えている。
目尻の皺も、昔より深くなった。
でも、ここへ閉じ込められてからというもの、
毎日の景色があまりにも変わらなかった。
同じ部屋
同じ窓
同じ石壁
決まった時間に運ばれてくる食事
季節が変わっても、見える景色はそれほど変わらない。
そのせいで、
私はいつの間にか、自分だけ時間の外にいるような気になっていたのかもしれない。
けれど外では、ちゃんと時間が流れていた。
子どもたちは大人になり、
娘たちはそれぞれ別の国へ嫁ぎ、
息子たちは父親と揉めながら、自分たちなりの人生を進んでいる。
そしてとうとう。
私と同じ世代の人間が、一人いなくなった。
「……ルイがねぇ」
カップをソーサーへ戻す。
小さな音が、やけに大きく聞こえた。
思い出すのは、ずいぶん昔のことだった。
十五歳で結婚した。
相手は、真面目で、堅物で、どこか頼りなくて、
それでも自分なりに王であろうとしていた少年だった。
何もかも噛み合わなかった。
私は南育ちで、
あいつは北の宮廷で育った。
私は派手で、
あいつは地味で。
私は思ったことをすぐ口にして、
あいつは考え込んで黙る。
本当に。
どうして結婚したんだろうと思うくらい、合わなかった。
十字軍にも一緒に行った。
喧嘩もした。
別れた。
そのあと私はヘンリーと再婚して
ルイはフランス王のまま、ずっと隣にいた。
私がアキテーヌを持っていった時も。
息子たちがあいつのところへ駆け込んだ時も。
何だかんだで、”ずっとそこにいた”。
「……いなくなるとは思ってなかったな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
好きだったかと聞かれたら、困る。
嫌いだったかと聞かれても、たぶん、それだけではない。
夫婦としてはうまくいかなかった。
政治的には敵対したこともある。
腹が立つことも山ほどあった。
でも、私が若かった頃から知っている人間だった。
この時代を、一緒に生きてきた人間だった。
そして、今となっては………
あの頃の自分を知っている数少ない人間でもあった。
その人が「もういない」
「……フランスは?」
しばらくしてから、私は尋ねた。
「昨年ランスで戴冠されたフィリップ陛下が、
そのまま単独で統治をなさることになります」
「十五歳だったっけ」
「はい」
「十五歳か……」
私は少し眉をひそめた。
ルイが晩年になって、ようやく授かった男の子。
私の中で、フィリップとはそれ以上でもそれ以下でもない。
どういう子なのかも、よく知らない。
ましてこの先どんな王になるのかなんて、
分かるはずもない。
「大変だろうな」
ただ、それだけは思った。
”十五歳”
私がルイと結婚したのも、それくらいの年だった。
何も分からないまま、大人たちに囲まれ、勝手に人生を決められて、
それでも何とか生きてきた。
今度は、
あの子が同じくらいの年齢で、一国を背負う。
「……務まるのかしらね」
「陛下には、諸侯や聖職者もついております」
「そうだろうけど」
私は小さく息を吐いた。
「十五歳は十五歳よ」
それ以上のことは、考えなかった。
考えようにも、分からなかった。
ここには情報がない。
自分の息子たちが今どこで何をしているのかですら、
噂を拾い集めなければ分からない。
フランスの十五歳の王が、何を考えているかなど知る術もない。
私はしばらく黙っていた。
やがてふと。
胸の奥に別の感覚が湧いてきた。
「……ねえ」
「はい」
「私、本当にここから出られないのかしら」
侍女長の顔が曇った。
自分でもこんな言葉を口にするとは思っていなかった。
今までも、出たいと思ったことはある。
腹も立った。
ヘンリーを罵りもした。
でも
どこかでまだ時間はあると思っていた。
そのうち何とかなるかもしれない。
いつか状況が変わるかもしれない。
そんな風に
どこかで思っていたのかもしれない。
でも、ルイが死んだ。
私とほとんど同じ年だった男が。
それで初めて。
自分にも残り時間があるのだと、急に実感した。
「私も……いつか死ぬのよね」
侍女長が、息を呑んだ。
私は苦笑した。
「当たり前なんだけどね」
当たり前のことだった。
誰だって死ぬ。
けれどここへ閉じ込められたまま
子どもたちが大人になっていくのを遠くから聞くだけで
アキテーヌへ戻ることもできず
そのまま時間だけが過ぎて終わるのだろうか。
そう思うと急に怖くなった。
「……ルイは、ちゃんと自分の国で死んだのね」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
”私はどこで死ぬのだろう”
その答えは分からない。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
私は冷めかけたカップを両手で包み、その温かさを確かめるように指先へ力を込めた。
遠い昔、まだ十五歳だった頃。
真面目すぎる顔でこちらを見ていた若いルイの姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。
本当に長い時間が流れた。
そして今その時間の針が…
初めて自分にも聞こえるほど大きな音を立てて、次へ進んだような気がした。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




