第122話:父上が弱ってきました(※解体業者、そろそろ実地研修へ)
アンジュ―帝国解体屋、フィリップ君完成しつつありますね
パリ、シテ島のフランス王宮。その奥まった寝所には、
かつてアンジュー家の反乱軍首脳陣が怒鳴り合っていた大広間とは対照的な、
静かな空気が流れていた。
暖炉の火は弱く、室内には薬草を煮出した匂いが漂っている。
ベッドの背もたれに身を預けているフランス国王ルイ七世は、
ここ数年ですっかり白髪が増えていた。
四十年以上も王位にあり、十字軍へ行き、国内の諸侯を相手にし、
そして何より、長年にわたってヘンリー二世という
厄介極まりない隣人と張り合い続けてきた。
さすがに疲れも出る。
最近では体調を崩して寝所で過ごす日も増え、
以前ほど長時間の政務をこなせなくなっていた。
その傍らに、背筋を伸ばして座っている少年がいる。
十四歳になったフィリップである。
かつて干し葡萄をつまみながら大人たちの会話を眺めていた幼さは、
もうかなり薄れていた。
最近では父のそばで書状を読み、諸侯からの陳情に目を通し、
分からないことがあれば自分から質問するようになっている。
「……げほっ」
ルイが小さく咳き込むと、フィリップはすぐに杯を差し出した。
「父上。薬です」
「ああ、ありがとう」
ルイは苦そうな顔で煎じ薬を口にした。
「相変わらず、ひどい味だね」
「効くなら我慢してください」
「十四歳の息子に叱られるようになったか」
ルイは苦笑した。
その表情は穏やかだった。
息子が成長している。
それは父親として、素直に嬉しい。
ただ……
最近のフィリップを見ていると、時々、妙に嫌な予感がすることもあった。
ルイは枕元に置かれた書状の束へ目を落とした。
ノルマンディーやアキテーヌ方面から届いた、
アンジュー家の近況についての報告である。
「……向こうは、相変わらず騒がしいね」
フィリップが顔を上げる。
「若王殿下のことですか?」
「ああ」
ルイは書状を一枚持ち上げた。
「若アンリはトーナメントに熱中して借財を増やし、
ヘンリー王はその後始末で怒り狂っているらしい。
南ではリチャードが反乱後の領地を立て直しているが、
兄の借金に王家の金が使われたと聞いて、かなり不満を持っているとか」
フィリップは少し考えてから言った。
「また揉めそうですね」
「……そこなんだよ」
ルイは深いため息をついた。
ヘンリー二世という男は、王として見れば恐ろしく有能だった。
決断は速い。
軍を動かせば強い。
広大な領地を休む間もなく巡回し、裁判も財政も自分の目で確かめる。
だが、どういうわけか
息子との付き合い方だけは、何年経っても改善しない。
「若アンリを王として戴冠させながら、実際の権限はほとんど
自分の手に残したままだ。リチャードにはアキテーヌを任せているが、
完全に自由にさせるつもりもない。
ジェフリーもまた、自分の立場を守るために動いている」
ルイは首を横に振った。
「一度、大きな反乱まで起きたというのにね」
フィリップは黙って地図を見た。
「父上」
「なんだい」
「では、やっぱり」
フィリップは地図上のアンジュー領を指先でなぞった。
「あの家は、放っておいてもまた揉めますよね」
ルイの手が止まった。
「…………」
フィリップは何でもないことのように続ける。
「ヘンリー王は実権を手放したくない。若王殿下は王として扱ってほしい。
リチャード殿は南で自分の力をつけていますし、
ジェフリー殿にも自分の都合がある」
そこで一度言葉を切り、少年は地図から父へ視線を移した。
「誰も同じ方向を向いていません」
「……フィリップ」
ルイのみぞおちが、何となく痛くなってきた。
「だからね」
ゆっくりと言い聞かせる。
「あの一家の揉め事には、あまり深入りしてはいけないよ」
「なぜです?」
「危ないからだよ」
ルイは即答した。
「アンジュー家は、身内で喧嘩している時でも一人一人が強い。
下手に近づけば、こちらまで巻き込まれる」
フィリップは少しだけ首を傾げた。
「でも、父上」
「うん?」
「中で揉めている時なら、外から少し押すだけで、
もっと大きく崩れることもありますよね」
「…………」
ルイは目を閉じた。
やっぱり考えていた。
「フィリップ」
「はい」
「それを利用しようとするなと言っているんだ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
フィリップが黙る。
ルイはじっと息子を見た。
「どこを押せば崩れるか考えていただろう」
「…………」
「父には分かる」
フィリップは少しだけ口を尖らせた。
「……少しだけです」
「少しでも考えているじゃないか」
「でも、考えるだけなら自由でしょう」
「十四歳にしてその理屈を使うのはやめなさい」
ルイは額を押さえた。
息子は賢い。
それ自体は喜ばしい。
ただし目の前に置かれた教材が、あまりにも悪い。
よりによって、”何年もアンジュー家の家庭内戦争を
至近距離で観察してしまった”。
強い国にも弱点がある。
正面から勝てない相手でも、内部の亀裂なら利用できる。
そんなことを少年は少しずつ学び始めている。
ルイは息を吐き、フィリップの手を取った。
「いいかい」
「はい」
「相手の弱点を見ることは必要だ。王になるなら、なおさらね」
フィリップは真面目な顔で聞いている。
「だが、弱点を見つけたからといって、すぐに手を出せばいいわけではない。
王は一度勝てば終わりではないんだ。
明日も、その次の日も国を残さなければならない」
「……はい」
「急ぐな。自分の国を先に強くしなさい」
フィリップはしばらく黙っていたが、やがて素直に頷いた。
「分かりました」
ルイは少しだけ安心した。
本当に分かったかどうかは正直、怪しかったが。
しばらくすると、ルイは窓の外へ視線を向けた。
曇った空の向こう。
さらに北東には、ランスがある。
”フランス王が王冠を戴く場所”
「……フィリップ」
「はい、父上」
ルイはゆっくり息を吸った。
「ランスへ行こう」
フィリップの目がわずかに見開かれる。
「そなたの戴冠式を行う」
部屋が静かになった。
フィリップは、すぐには言葉を返さなかった。
十四歳。
王子として育てられてきたとはいえ
実際に王冠を戴くという話は、やはり別物だった。
「……私が、王に?」
「ああ」
ルイは微笑んだ。
「私がまだ動けるうちに、
諸侯と聖職者の前でそなたを王として立てておきたい」
「でも、父上はまだ国王です」
「もちろんだよ」
ルイは頷いた。
「だからこそ、今のうちに学びなさい。私が動けない時には、
そなた自身が人々の前に立たなければならない。
書状を読み、話を聞き、自分で考えなければならない」
フィリップは父の顔を見つめた。
「怖くはありませんか」
「何がだい?」
「私が、父上の思うとおりに動かなくなるかもしれません」
ルイは一瞬だけ目を丸くした。
それから少し笑った。
「それでいいんだよ」
今度は、フィリップが驚く番だった。
「そなたは、私ではない」
ルイは息子の手を軽く握る。
「私と同じ王になる必要はない。ただ、私が失敗したところから学びなさい。
そして、私が残せたものを守りなさい」
フィリップは静かに目を伏せた。
「……務まるでしょうか」
その声だけは、少し年相応だった。
ルイは息子の肩を叩いた。
「最初から何でもできる王などいないさ」
穏やかに笑う。
「だから、今から学ぶんだよ」
フィリップはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「承知しました、父上」
少年はもう一度、机の上の地図へ目を向けた。
フランス王領は、まだ小さい。
その周囲には、巨大なアンジュー家の領地が広がっている。
父は何十年も、その相手と張り合ってきた。
負けたこともある。
譲ったこともある。
それでも国は残った。
ならば自分は…
まず、この国をもっと強くしよう。
そのうえで
もし、あの巨大な隣人がまた内側から割れる時が来たなら。
その時、自分に何ができるのかを考えればいい。
フィリップは地図を見つめながら、静かに息を吐いた。
まだ方法までは決めていない。
ただ、強い相手にも、弱い場所があることだけは。もう知っていた。
翌年。
父ルイ七世が世を去り。
この十四歳の少年が、一人の王としてフランスを背負うことになる。
だが、それは、もう少し先の話である。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




