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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第118話:観察日記、最高の教材は隣の家(※解体業者、基礎講座を受講中)

のちの「アンジュ―帝国解体屋」ですね

反乱の嵐が去って数年。

パリのシテ島は、拍子抜けするほど静かな日々を取り戻していた。


かつては若ヘンリーたちの怒鳴り声や軍議のざわめきが絶えなかった王宮も、

今では雨音と暖炉の薪が爆ぜる音くらいしか聞こえない。


フランス国王ルイ七世は執務室で決裁書類に目を通していたが、ふと顔を上げた。


部屋の隅では、十一歳を過ぎたフィリップが、

大きな羊皮紙の地図を机いっぱいに広げている。


以前のように干し葡萄を片手に大人たちの会話を眺めていた少年ではない。

最近は、報告書や地図を読む時間が増えた。

もちろん、まだ政治のすべてが分かる年齢ではない。

それでも分からないなりに、何かを考えている。


「フィリップ」


ルイが声をかける。


「何をそんなに熱心に見ているんだい?」


フィリップは顔を上げ、地図の一角を指さした。


「父上。ヘンリー王は、どうしてこんなに広い土地を持っているのですか?」


ルイは地図を見て、わずかに苦笑した。


そこには、イングランドだけではなく、ノルマンディー、アンジュー、

アキテーヌをはじめとする広大な領域が連なっている。


フランス王領よりもずっと大きい。

見るたびに胃が痛くなる地図だった。


「婚姻と相続と、それから戦だよ」


「婚姻?」


「ああ。母方からノルマンディーを継ぎ、父方からアンジューを継いだ。そして」


ルイは一瞬だけ言葉を止めた。


「アキテーヌの女公と結婚した」


フィリップが頷く。


「アリエノール殿ですね」


「……そうだね」


元妻の名前を息子から聞くたび、なぜか今でも少しだけ胃が重くなる。

フィリップはそんな父親の微妙な表情には気づかず、地図へ視線を戻した。


「では、息子さんたちは、どうしてあんなに怒っていたのですか?」


「どうして、とは?」


「こんなに土地があるのなら、分ければいいのに」


ルイは思わず笑いそうになった。


実に子供らしい。

そして、妙に核心を突いた疑問だった。


「ヘンリー王は、まったく何も与えていないわけではないよ」


ルイは説明する。


「息子たちには称号も、将来受け取るべき土地も示している。

ただ、実際に自由に使える権限までは、なかなか手放さない」


「どうして?」


「自分でやった方が確実だと思っているからだろうね」


「息子さんたちを信用していないのですか?」


ルイは少し考えた。


「信用していない、というだけでもないだろう。

あの男は、自分なら全部できると思っているんだよ。

実際、かなりできてしまう。それが余計に厄介なんだ」


フィリップはしばらく黙って地図を見つめた。


『ヘンリー王は強い』


父ルイが何度も正面から戦い、それでも決定的には崩せなかった相手だ。


軍を動かすのも早い。

金もある。

土地も広い。


それなのに、

その息子たちは父親に不満を持ち、

妻は拘束され、

一度は家族全体が敵味方に分かれて戦争になった。


「父上」


「なんだい?」


「強い国でも、中で喧嘩していると弱くなるんですね」


ルイの手が止まった。

羽ペンの先から、一滴だけインクが落ちる。


「……そうだね」


慎重に答える。


フィリップは続けた。


「ヘンリー王は、強いですよね」


「ああ」


「でも、アンリ殿も、リチャード殿も、ジェフリー殿も、

みんな父親に怒っていました」


「そうだね」


「もし、また喧嘩したら?」


ルイは息子を見る。

フィリップの顔に、悪意はない。

ただ、疑問を口にしているだけだ。


「また、ヘンリー王は大変になりますか?」


「……なるだろうね」


「全部の土地を一人で守らないといけないから?」


「そういうことだ」


フィリップは納得したように頷いた。


それから、もう一度地図へ視線を落とした。

しばらく何も言わない。

ルイはなぜか、その沈黙が気になった。


「フィリップ」


「はい」


「何を考えているんだい?」


少年は少しだけ首を傾げた。


「外から一生懸命壊そうとしても、ヘンリー王は強いから、

なかなか壊れませんよね」


ルイの眉が動く。


「……まあ、そうだね」


「でも」


フィリップは地図の上で、アンジューの広大な領域を指先でなぞった。


「中で揉めている時なら、少し押すだけでも、

もっと大きく崩れることがあるのかなって」


部屋が静かになった。


暖炉の薪が小さく爆ぜる。

ルイは息子の横顔を見つめた。


十一歳。

まだ少年だ。


軍を率いたこともない。

外交の席に座ったこともない。


それでも、

何年も、

ヘンリー二世一家の喧嘩を至近距離で”見てきた”。


父親と息子が争い、

妻が拘束され、

兄弟同士の利害も一致しない、

その光景をずっと教材のように見続けてきた。


「……誰に教わったんだい?」


ルイが尋ねる。

フィリップは不思議そうな顔をした。


「誰にも」


「では、どうしてそんなことを考えた?」


「ずっと見ていたからです」


あまりにも簡単な答えだった。


ルイは思わず額へ手をやった。


息子が賢いのは嬉しい。

もちろん、嬉しいはずなのだ。


ただ教材が悪い。

ものすごく悪い。

よりによって、目の前にある教材がアンジュー家なのである。


ルイは椅子から立ち上がると、フィリップのそばへ歩いた。


小さな肩へ手を置く。


「フィリップ」


「はい、父上」


「あの一家から学ぶことは、悪いことではない」


少年が父を見る。


「ただし」


ルイは少しだけ声を強くした。


「真似はするなよ」


フィリップは瞬きをした。


「真似?」


「家族を疑って縛ったり、何でも一人で抱え込んだり、

自分の家の中に火種を山ほど置いたり。そういうことだ」


「ああ」


フィリップは素直に頷いた。


「はい。真似はしません」


「……本当に分かっているかい?」


「分かっています」


今度は少し笑う。

ルイはまだ不安そうだった。


フィリップは再び地図へ視線を戻した。


ヘンリー王の土地は広い。

強い。

正面から戦えば、父でも何度も苦労した。


でも、

強いものにも弱いところはある。

それが外から見えることもある。

自分で火を起こす必要はない。

すでに中で燃えかけているなら、ほんの少し

風を送るだけでいいのかもしれない。


そこまで考えたところで、フィリップは手を止めた。


まだそれをどう使えばいいのかまでは分からない。

ただ”覚えておこう”と思った。


「父上」


「なんだい?」


「強い国にも、弱いところはあるんですね」


ルイは息子の顔を見た。

そしてほんの少しだけ嫌な予感を覚えながら頷いた。


「……あるね」


フィリップは満足そうに微笑んだ。

その日少年が覚えたのはただ一つ。


『巨大なものは外から叩くだけが壊し方ではない』

ということだった。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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