第117話:末っ子ジョン、父上のそばで育っています(※母上は海の向こう)
後のやらかし王です(`・ω・´)
ノルマンディー公領ルーアン、国王の私室。
暖炉の前で羊皮紙の決裁書類に目を通していたヘンリー二世の膝へ、
小さな影がするりと入り込んできた。
十歳ほどになった末っ子のジョンである。
「父上、見て。さっき厩舎の小犬が僕の靴をくわえて逃げたんだ」
「ほう」
普段なら側近たちを震え上がらせる灰色の瞳が、
この時ばかりは驚くほど柔らかく細められた。
ヘンリーは手元のペンを置き、大きな手で息子の巻き毛をくしゃりと撫でる。
「噛まれはしなかったか。怪我はないな」
「うん。犬の方が途中で転んで、靴を落としたから」
ジョンは得意そうに笑った。
若ヘンリーやリチャード、ジェフリーが父の前に立つ時に見せる、
あの張り詰めた空気など微塵もない。
ジョンにとって、ヘンリー二世は怒鳴り散らす恐ろしい王ではなく、
いつも近くにいて、自分を膝に乗せ、頭を撫でてくれる父親だった。
ヘンリーは腕の中の息子を見下ろしながら、ふと考え込むように目を細めた。
「……お前には、まだ何もないな」
ジョンが首を傾げる。
「何もない?」
「兄たちには、それぞれ行く先がある」
ヘンリーは静かに続けた。
「アンリには王冠があり、リチャードにはアキテーヌがある。
ジェフリーにはブルターニュがある。
だが、お前にはまだ、自分のものと呼べる土地がない」
ジョンはよく分かっていない顔で父を見上げた。
「僕も、お城をもらえるの?」
ヘンリーはわずかに笑った。
「いずれな。お前だけ何も持たぬままにはしない」
「ほんと?」
「ああ」
「ありがとう、父上!」
ジョンは嬉しそうに父の胸へ寄りかかった。
少年は何も悪くない。
父親から愛情を向けられ、それを素直に受け取っているだけの、
ごく普通の末っ子だった。
問題は、その父親が家族全体への配分になると、驚くほど不器用だったことである。
数年前。
ジョンがまだ幼かった頃、ヘンリー二世は彼の婚約に際して、
シノン、ルーダン、ミルボーといった城を与えようとした。
それ自体は、末っ子にも将来の基盤を用意してやりたいという父親なりの配慮だったのだろう。
ただし。
その頃の若ヘンリーは、すでに王冠を戴いていながら、
実際に自由に使える領地も収入も十分ではなかった。
そこへ父親が、長男の不満をまともに解消しないまま、
「では末っ子には城を与えよう」
とやった。
結果、若ヘンリーの不満は見事に爆発した。
もちろん、大反乱の原因がそれ一つだったわけではない。
長男の実権問題も、
リチャードやジェフリーの将来も、
フランス王ルイの思惑も、
アキテーヌや各地の諸侯の不満もあった。
だが、燃えやすい薪が山ほど積まれていたところへ
ヘンリー二世自ら、かなり大きな火種を投げ込んだのは間違いない。
長男には「まだ早い」と権限を渡さない。
末っ子には「何もないから可哀想だ」と城を用意する。
本人の中では、たぶん両方とも理にかなっている。
周囲から見ればどう考えても揉める。
そして最も厄介なのは
その配分を受け取るジョン本人には、”何の責任もない”ことだった。
父親に可愛がられる。
兄たちより近くに置かれる。
将来の土地まで気にかけてもらえる。
それだけで本人の意思とは関係なく、
兄たちから見たジョンは、父親の偏った愛情を象徴する存在になってしまう。
一方その頃。
海を隔てたオールド・サラムでは
アリエノールが暖炉の前で刺繍針を動かしていた。
娘たちからの手紙を読み終えたあと、ふと思い出したように顔を上げる。
「……ねえ、侍女長」
「はい、王妃殿下」
「ジョンのこと、何か聞いてる?」
侍女長は少し考えてから答えた。
「ジョン殿下は、陛下のお側におられることが多いと聞いております。
大陸へ移られる際にも、お連れになることがあるとか」
「……そう」
私は小さく頷き、膝の上の布へ視線を戻した。
針を一本通す。
それから、もう一本。
手だけは動かしているのに
頭の中には、幼い末っ子の顔が浮かんでいた。
「大きくなったんでしょうね」
「もう十歳ほどになられます」
「十歳かあ……」
思わず苦笑する。
最後にじっくり顔を見たのは、いつだっただろう。
ジョンは、私と離れている時間の方が長い。
リチャードはアキテーヌへ連れて行き、同じ宮廷で過ごした。
どんな時に怒り、何を好み、どういう顔をすると危ないのかまで
ある程度分かる。
でもジョンは違う。
「リチャードは、私のところで育った」
ぽつりと呟く。
「ジョンは、あの人のところで育ったのよね」
その違いは、思っていたより大きい。
可愛くないわけではない。
そんなはずはない。
自分の子供だ。
『ただ知らないのだ』
今、何が好きなのか
どんな時に笑うのか
誰に懐いているのか
どんな考え方をするようになったのか
その全てを”自分より、ヘンリーの方がずっと知っている”。
その事実に気づくと
胸の奥が、少しだけ重くなった。
「陛下は、ジョン殿下をとても可愛がっておられるそうです」
侍女長が静かに付け加えた。
「でしょうね」
私は苦笑した。
「あの人、末っ子には甘いところあるから」
言いながら数年前のことを思い出す。
ジョンに城を与えようとして若ヘンリーを怒らせ
その怒りが、大反乱へ転がっていったこと。
「……ジョンは悪くないのよ」
侍女長がこちらを見る。
「はい?」
「何でもない」
私は首を振った。
悪いのは、どう考えても配り方だ。
長男には我慢させる。
末っ子には与える。
しかもそれを説明しない。
あの男は、王国全体なら恐ろしく上手く回すくせに、
家族になると突然、人の感情という項目を計算から落とす。
「また変な領地の分け方して、ジョンを兄たちの標的にしなきゃいいけど」
私は眉を寄せた。
ジョンは父親を慕っている。
父親もジョンを可愛がっている。
それ自体は悪いことではない。
むしろ母親としては
自分がそばにいられない分まで、誰かがあの子を大切にしてくれているのなら、
ありがたいと思うべきなのだろう。
でも、相手がヘンリー二世となると安心しきれない。
「可愛がるのはいいのよ」
私は刺繍針を動かしながら呟いた。
「可愛がるのはいいんだけど。あいつ、可愛がり方が政治と直結するのよね……」
城をやる
領地をやる
立場を作る
そしてそのたびに誰か別の息子が怒る。
「本当に家庭内マネジメント向いてないわ、あの人」
ため息をついた。
窓の外では、イングランドの重たい雲がゆっくり流れている。
海の向こうには父の膝で笑う末っ子がいる。
自分では抱きしめることも、頭を撫でることもできない。
それでもせめて、
兄たちとの争いの道具にだけはならないでほしい。
私はそう願いながら
まだよく知らない十歳の息子の姿を、記憶の中で何度も思い浮かべていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




