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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第114話:有休消化だと思ってたら、長期出張どころか島流しだった件

引きこもり中の生活改善大事

ドーバー海峡の荒波に揺られ、盛大に船酔いしながら辿り着いた先は、

イングランド南部、オールド・サラムの王城だった。


小高い丘の上に築かれた城塞は、土塁と石壁に囲まれ、いかにも簡単には

出入りできそうにない造りをしている。空は鉛色で、風は冷たく湿っていた。

前世で抱いていた「霧の英国」的な風情を味わう余裕など、

船から降りたばかりの私には一ミリもない。


「……うーん」


案内された部屋でマントを脱ぎながら、私はぐるりと室内を見回した。


部屋そのものは悪くなかった。石造りの広い客室には天蓋付きのベッドがあり、

壁には隙間風を防ぐための厚いタペストリーが掛けられている。

暖炉にはすぐ薪がくべられ、身の回りの世話をする侍女も何人かつけられた。


夕食も、覚悟していたほど酷くない。


「イングランドのご飯って、もっと謎の煮込みとか出てくるのかと思ってたんだけど」


目の前には、香草を使った肉料理と温かな煮込み、それにパンが並んでいる。

普通に食べられる。

むしろ、船酔いで空っぽになった胃にはありがたいくらいだった。


生活水準だけを見れば、何も困らない。

飢えさせられるわけでもない。

寒さに震えろと言われるわけでもない。

王妃としての扱いも、最低限どころかかなり手厚い。


だからこそ、余計に気づくまで時間がかかった。


食後

私はお茶を運んできた侍女長に、軽い調子で声をかけた。


「ねえ。少し外の空気を吸いたいんだけど、中庭くらいなら歩いていい?」


侍女長は一瞬だけ間を置いた。


「申し訳ございません。王妃殿下が城内を自由に歩かれることは、

許されておりません」


「……あ、そう」


まあ、

着いたばかりだしそういうこともあるか。


私は気を取り直した。


「じゃあ、ポワティエに手紙を書きたいんだけど。

羊皮紙とインクをもらえる?」


「書状のやり取りには、すべて許可が必要でございます」


「……なるほど」


少し嫌な感じがしてきた。


「じゃあ、誰か訪ねてきた場合は?」


「面会も、陛下の許可を得た方に限られております」


「…………」


私はお茶のカップを持ったまま、動きを止めた。


外出できない

手紙も自由に出せない

来客も勝手には会えない


一つ一つは、監視下に置かれている人間なら当然の制限なのかもしれない。


けれど全部並べると、かなり話が違って見える。

シノンにいた頃は、まだどこかに「戦争中だから仕方ない」という空気があった。

外では兵が動き、息子たちとヘンリーが争い、城の中にもその緊張感が漂っていた。


けれど、ここにはそれがない。


戦争は終わっている。

息子たちも父親と和解した。

なのに

私だけは、外の世界からきれいに切り離されている。


アキテーヌの政務に関する書類も来ない。

諸侯からの知らせもない。

ポワティエで何が起きているのかすら、自分から知る方法がない。


私は四十年以上、あの土地と関わってきた。

守ったり、揉めたり、怒ったり、投げ出したくなったりしながら、

それでもずっと自分の場所だと思ってきた。


そのアキテーヌから”本当に切り離された”のだ。


「……あれ?」


私はカップを両手で包んだまま、侍女長を見上げた。


「はい」


「私、ここからいつ出られるの?」


侍女長の表情が止まった。


そして視線が静かに下がる。

返事はない。

暖炉の中で、薪がぱちりと爆ぜた。


「……その沈黙、やめてもらえる?」


「…………」


「お願いだから何か言って。来年の春とか、

陛下のお怒りが解けたらとか、何でもいいから」


侍女長は困ったように頭を下げた。


「温かいお茶のおかわりを、お持ちいたします」


「答えてないぃぃぃぃぃ!!」


私は頭を抱えて椅子の背にもたれた。


そこでようやく理解した。


これは、短い自宅待機なんかじゃない。

戦争が終わっても出られない。

息子たちが父親と和解しても出られないとなれば、

ヘンリーは私をしばらく自由にするつもりがないのだろう。


理由も、なんとなく分かる。


私が何か命令を出すからではない。私がアキテーヌへ戻る、

それだけで周囲が勝手に意味を見つけるのだ。


誰かが私を旗印にするかもしれない。

息子たちがまた集まってくるかもしれない。

何もする気がなくても、「アリエノールが戻った」という事実だけで、

また余計な火種が生まれる。


”ヘンリーは、それを嫌がっている”


「……マジかぁ」


私は冷たい石壁を見つめた。


『これ、下手をすれば年単位じゃない?』


そう考えた瞬間、さすがに気が遠くなりそうになった。


泣き叫びたい気持ちもあるし、壁の一つでも殴りたい。

けれど、そんなことをしたところで、ヘンリーが

「可哀想だから出してやろう」

と考える男ではないことだけは、長い結婚生活で嫌というほど知っている。


私はしばらく黙っていた。

そして、ゆっくり顔を上げた。


「……よし」


侍女長が、嫌な予感でもしたようにこちらを見る。


「王妃殿下?」


「泣いても出られないなら、ここで一番快適に暮らしてやるわ」


「……はい?」


自分でも妙な結論だとは思う。


でも、前世で会社員をしていた頃から、

どうにもならない環境に放り込まれた時だけは妙に現実的になる癖があった。


長期戦なら、長期戦なりの戦い方がある。


「まず暖炉。風向きによって煙が戻ってくるから、煙突を一度見てもらって。

薪も、もっと乾いたものがあるならそっちにして」


「は、はい」


「それとクッション。腰が痛くなるから、もう少し欲しい。

羽毛があるなら羽毛で」


「承知いたしました」


「羊皮紙とペンもお願い。

手紙じゃなくて日記を書くくらいなら問題ないでしょう?」


侍女長は少し考えてから頷いた。


「確認いたします」


「そこも確認はいるのね……まあいいわ」


私は部屋の中を見回した。


今までなら「どうせすぐ出る」と思って気にもしなかったところが、

急に全部気になってくる。


「朝のパンは少し炙って。バターがあるなら多めに。

それと寝具も一枚追加してほしい。夜、思ったより冷えるのよ」


「かしこまりました」


侍女長が次々と書き留めていくのを見ながら、私は腕を組んだ。


「長期引きこもり生活は、最初の環境構築が大事なのよ」


「……はあ」


意味は伝わっていない。


別にいい。

出られないなら、せめて自分から壊れるのだけは御免だった。


温かい部屋。ちゃんとした食事。本。日記。眠れる寝具。

そして、話し相手になってくれる侍女。


使えるものは全部使う。


私は椅子へ座り直し、ひとつ息を吐いた。


「まずは、この島で生き延びる」


自由はない。帰れる日も分からない。

それでも今日は、暖炉の火を少し強くして、

夕食を食べて、暖かくして寝ればいい。


世界史八点ちゃんの長期拘束生活は、悲壮な絶望ではなく、

妙に実務的な「住環境の改善」から始まったのだった。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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