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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第11話:土を舐めるな、教科書を閉じろ

がんばれ8点ちゃん(`・ω・´)

製紙革命が、企画書の一行目を書く前に脳内会議で即死してから数日。


「アリエノール。行くぞ」


馬の鞍に跨がった父上に、私はひょいと抱き上げられた。


今回の視察は、祖父のドンチャン騒ぎツアーではない。

父上の、ガチ実務巡回である。


真面目な父は、私を自分の前に乗せると、手綱を握りながら低い声で言った。


「ただ眺めるだけでは駄目だ」


「あい」


「見るなら、土地がどう息をしているのかを見なさい」


「あい」


私は神妙に頷いた。


その一方で。

心の奥では、まだ最後の野望の炎が消えていなかった。


衛生。

ダメ。


工業。

ダメ。


電気。

論外。


製紙。

開始前に終了。


だが。

人間が生きるために、一番大事なものは何だ。


『食べ物』


つまり”農業”。


(輪作! 三圃式農業! 堆肥! 品種改良!)


来たこれ。


世界史は八点だったけれど、地理の教科書に出てきた太字の単語なら、いくつか覚えている。


畑をいくつかに分ける。

作物を替える。

一部を休ませる。

地力を回復させる。


そういうやつだ。


細かいことは知らない。

でも方向性は分かる。


中世ヨーロッパの農業革命を、私がちょっとだけ先取りすればいい。


収穫量アップ。

領民大喜び。


税収アップ。

アキテーヌ富国強兵。


今度こそ。

今度こそ本物の内政チートである。


馬はしばらく進み、川沿いの開けた農村へ入った。


麦畑。

豆畑。

草地。

家畜。


低い家々。

遠くでは何人かの農民が腰を曲げて働いている。


父上は馬から下りると、泥で膝まで汚れた老農夫のところへ歩いていった。


「ジャン。今年の麦はどうだ」


「ああ、ギョーム様」


老農夫――ジャンさんは、日に焼けた顔をほころばせた。


「今年は今のところ順調でさあ」


私は父上のそばから畑を覗き込む。


よし。

さあ、三圃式を、輪作を。

未来の農業知識を。


……。


「……ん?」


私は首を傾げた。


麦だけじゃない。

少し離れた区画には豆。

その向こうには、草が伸びた土地。


そこでは羊がのんびり草を食んでいる。


父上が畑を見回した。


「去年、燕麦を入れた奥の畑は今年は休ませるのか」


「へえ」


ジャンさんは土のついた手で顎を撫でる。


「あそこは川に近くて、水が残りやすいですからな。

去年は燕麦を入れましたし、今年は休ませて羊を入れております」


「丘の上は?」


「あそこは風が強いんで、背の低い麦にしております。

背が高いのを植えると、春先の風で寝ちまいますから」


「北側の豆は」


「あそこに豆を入れたあとは、麦の出来がいいんでさあ。爺さんの代から、そうしております」


「…………」


私は固まった。


水が残りやすい畑には、それに合う使い方。

風の強い丘には、倒れにくい作物。


畑を休ませる。

羊を入れる。

豆のあとには麦。


『全部やってる』


しかも。


「三圃式農業!」


なんて教科書の太字を丸暗記している私より。


ずっと細かい。


この畑は水が多い。

あっちは風が強い。

こっちは土が重い。


その年の雨。

去年の収穫。

家畜の数。


そういうもの全部を見ながら”土地ごとに使い分けている”。


(……勝てるわけ、ないじゃん)


私は、

土を一度も耕したことがない。

種を蒔いたこともない。

麦を育てたこともない。

雨が降らなくて眠れない夜を過ごしたこともない。


「輪作」


「三圃式」


「堆肥」


そんな単語を教科書の太字で見ただけだ。


でもこの人たちは。


何十年も。

何代も。

この土を触っている。


空を見ている。

風を読んでいる。

雨を待っている。


失敗して。

覚えて。

次の年に変えて。


そうやって食べ物を作ってきた。


(理系OLの教科書知識で)


(勝てるわけないよ)


そしてもう一つ。

もっと怖いことに気づいた。


石鹸は失敗してもせいぜい、変な塊ができるくらいだ。

紙も失敗してもボロ布が無駄になる。

馬車は改善できなくても尻が痛いだけ。


でも…

農業は違う。


もし私が。


「未来の知識だから!」


なんて偉そうに言って

作付けを変えさせたら。

種を変えさせたら。

畑の休ませ方を変えさせたら。


そして。


”失敗したら”

”収穫が半分になったら”


その時困るのは私じゃない。


『ここにいる人たちだ』


食べるものがなくなる。

冬を越せなくなる。


子供が

老人が

弱い人から


”死ぬ”


私は背筋が冷たくなるのを感じた。


前世では

スーパーへ行けば季節に関係なく野菜が並んでいた。

コンビニでは

おにぎりが売れ残って廃棄されることすらあった。


でもここでは違う。


一度の凶作が

そのまま人の命に繋がる。


「……アリエノール?」


父上の声で我に返った。


「どうした。顔色が悪いぞ」


父上が心配そうにかがみ込む。

ジャンさんも、優しく目を細めた。


「お嬢様。土がお嫌でしたかな?」


「……ううん」


私は首を振った。

そしてしゃがみ込む。

小さな手を足元の土へ伸ばした。


黒くて

少し湿っていて

指の間にまとわりつく


冷たいと思ったのに、

触ってみるとなぜか少し温かく感じた。


「……つち、あったかいね」


父上が、ほんの少し笑った。

そして私の頭に大きな手を置く。


「そうだな」


父上も畑を見た。


「この土が、我らの命だ」


私はもう一度手の中の泥を見た。


ここには


農夫たちの汗がある。

家畜の糞がある。

去年の枯れ草がある。

その前の年の収穫がある。


何十年、何百年、積み重なった。

失敗と工夫と

命がある。


私はそれを何も知らない。

何も知らないくせに

教科書で見た単語を二つ三つ並べて


「未来人だから」


なんて少しだけ本気で思っていた。


さようなら。

未来知識チート。


さようなら。

内政無双。


私の頭の中にあった薄っぺらい優越感は、

アキテーヌの豊かな土の中へきれいさっぱり埋葬された。




※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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