第12話:アキテーヌ、でかくない?
やっと根っこが出てきた8点ちゃん
農村の泥に触れた翌日。
私の中で、長々と燻っていた「未来人チート無双」の残骸は、ようやく完全に鎮火していた。
石鹸、水、馬車、電気、紙、そして農業。
思いつくたびに「これならいける!」と飛びついて、そのたびに、
すでにあったり、作り方を知らなかったり、現地の人たちの方がずっと深く物事を知っていたりした。
そして昨日、私は初めて本気で怖くなった。
あの老農夫の泥だらけの手。風の強い丘。水の残りやすい畑。
何十年も積み重ねられた、土地ごとのやり方。
私が軽い気持ちで口を出して、その結果、収穫が減ったら。
困るのは私じゃない。あそこで暮らしている人たちだ。
だから、何かを変えるとか、発展させるとか、そんなことを考える前に。
”まず、知らなきゃいけない”
私は、自分が立っている場所のことを何も知らない。
「とうさま」
執務室で羊皮紙の帳簿と睨み合っていた父上の袖を引く。
父上は顔を上げた。
「ん? アリエノールか」
仕事中はいつも難しい顔をしているのに、私を見ると少しだけ眉間の皺が緩む。
「どうした」
「ちず、みたい」
「地図?」
父上が意外そうに眉を上げた。
そりゃそうだ。二歳か三歳の幼児が、絵本でもおもちゃでもなく地図を要求している。
普通に考えれば怖い。
私は慌てて付け足した。
「あきてーぬ。みたい」
父上は、しばらく私の顔を見た。昨日、私を農村へ連れていったことを思い出しているのかもしれない。
やがて「そうか」と静かに頷いた。
「なら、見せよう」
父上は立ち上がり、棚から大きな巻物を取り出した。
羊皮紙だ。かなり大きい。何枚かを継ぎ合わせているようにも見える。
机の上へ広げられたそれを、私は期待に胸を膨らませながら覗き込んだ。
そして。
「……?」
固まった。
待て。
これ、地図?
私が想像していたのは、上が北、下が南。海岸線が正確に描かれて、
川も道路も都市も、領地の境界線もきっちり分かる、そういうものだった。
Googleマップほど贅沢は言わない。せめて、学校の社会科で使う地図帳くらいの。
でも、目の前の羊皮紙には、海岸、大きな川、山、いくつかの町、城らしき印。
そんなものが描かれている。
ただし、海岸線はぐにゃぐにゃ。距離感も怪しい。町は妙に大きく描かれている。
山なんて、ほとんど絵である。
「……ここ、どこ?」
「ここだ」
父上が一点を指した。
「ポワティエ」
「……」
なるほど。
現在地。赤いピンなし。
「こっち?」
「南だ」
「きた、どっち?」
父上が私を見る。
「北?」
「うん」
少し考えてから、父上は地図の上を指で示した。
「おおよそ、こちらだ」
おおよそ。
(縮尺は?)
聞きかけて、やめた。
たぶん「しゅくしゃく?」って返される。
私は学んだ。未来の常識をそのままぶつけると、自分が傷つく。
「ここがポワティエ」
父上の指が動く。
「南へ行けば、ボルドー」
ボルドー。
知ってる。ワイン。
「さらに南にはガスコーニュ。その先にはピレネーの山々がある」
ピレネー。
それも知ってる。スペインとの間にある山。たぶん。
「西は海だ」
大西洋。
「東は山地へ続く。そして北にはポワトゥーの土地が広がる」
父上の指先を追う。
地図だけ見ても、正直よく分からない。
でも、父上の説明を聞きながら、私は少しずつ頭の中に線を引いていった。
ポワティエ。ボルドー。海。川。山。
昨日の農村。馬車で走った道。あの畑。あの橋。
そういうものが、少しずつ地図の上へ重なっていく。
そして、ようやく気づいた。
「……えっ」
私は地図を見た。父上を見る。もう一度、地図を見る。
「……あきてーぬ」
「どうした」
「……でかくない?」
父上が一瞬黙った。そして、少しだけ笑った。
「そうだな」
いや、そうだな、じゃない。
でかい。
すごくでかい。
思ってたより、ずっとでかい。
私の頭の中にあるフランス地図なんて、かなり怪しい。
でも少なくとも、ポワティエからボルドー、さらに南、海から山まで。
父上が説明する範囲だけで、めちゃくちゃ広い。
「これ、ぜんぶ?」
「ああ」
「ぜんぶ、あきてーぬ?」
「すべて同じ形で我らが直接治めているわけではないが」
父上は答えた。
「我らの権利が及ぶ土地だ」
……なるほど。
そこも現代の県境みたいに、ここからここまで全部同じ、というわけではないらしい。
ややこしい。
でも、一つだけは分かった。
”とにかく、でかい”
「豊かな土地だ」
父上が言った。
その声には、祖父みたいな派手な誇らしさはない。もっと静かで、重たいものがあった。
「だが」
父上の指が、地図の上をゆっくり動く。
「広いということは、それだけ背負うものも多い」
ポワティエ。ボルドー。川。道。村。教会。市場。
「昨日見たような村が、いくつもある」
私は昨日の光景を思い出した。
泥の匂い。羊。畑。老農夫の手。
「あそこにいるような者たちが、この土地のあちこちで生きている」
父上の指が止まる。
「商人もいる。騎士もいる。農民もいる。聖職者もいる」
そして父上は私を見る。
「それらをまとめ、守るのが、我らの務めだ」
私はもう一度、地図を見た。
さっきまで、ただの線だった。川だった。名前だった。
でも今は、そこに人がいる気がした。
昨日見た畑がある。道を行く荷車がある。橋がある。葡萄畑がある。
パンを焼く人がいる。羊を追う子供がいる。
全部、この中にある。
「……」
未来知識で何かしてやろう。
そんなことじゃない。
私は何も知らない。この土地のことを、本当に何も。
「まず……しらなきゃ」
「ん?」
「……なんでもない」
私は首を振った。そして、羊皮紙へ顔を近づける。
ポワティエ。ボルドー。川。山。海。
分からない名前ばかり。知らない場所ばかり。
でも、昨日までとは少し違った。
最初、ここへ来た時。私は思っていた。
どこだよ、ここ。
知らねえよ。
帰りたい。
それだけだった。
でも今は、少しだけ思う。
もっと知りたい。
この土地がどんなところなのか。
父が、祖父が、何を守っているのか。
私が、どこで生きているのか。
まだ「私の土地」なんて、とてもじゃないけど言えない。
でもアキテーヌは、もう、ただの知らない地名ではなくなっていた。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




