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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第108話:勝ってやったぜの顔で来られても、こちらは有給中なんですが

まぁそうだよねぇ・・・

ロワール河畔、シノン城塞。


午後の柔らかな光が差し込む客間で、私は椅子に深く腰掛け、

膝掛けをかけたまま温かい飲み物をすすっていた。


机の上には、干した無花果を使った焼き菓子。

暖炉では薪がぱちぱちと音を立てている。


実に平和だった。

少なくとも、この部屋の中だけは。


その平穏をぶち壊すように、扉が勢いよく開いた。


「アリエノール!」


響き渡る野太い声。

私はカップを持ったまま、ゆっくり顔を上げた。


そこに立っていたのは、旅装のままのヘンリー二世だった。


埃のついた外套。

疲労の色はある。


だが、それ以上に。


『顔がうるさい』


言葉に出していないのに、


『どうだ、見たか』


と全身で主張している。

完全なる勝者の顔である。


私はしばらく夫を眺めた。


それから。


「……何しに来たの?」


ヘンリーの表情が止まった。


「……何?」


「何しに来たのかって聞いてるの」


私はカップを机へ戻した。


「ノックくらいしなさいよ。人の部屋にいきなり入ってきて」


「人の部屋?」


ヘンリーの眉が跳ねる。


「ここは私の城だぞ!」


「はいはい。所有権の主張は結構です。で、用件は?」


私は焼き菓子へ手を伸ばした。


「今ちょうど、お茶の時間なんだけど」


ヘンリーは私と机の上のお菓子を交互に見た。


たぶん、もっと違う反応を期待していたのだろう。


悔しそうに睨むとか。

泣きながら戦況を尋ねるとか。

夫を呪うとか。


少なくとも。


『何しに来たの』


ではなかったはずだ。


ヘンリーは咳払いを一つすると、無理やり威厳を取り戻した。


「戦況を伝えに来た」


「頼んでないけど」


「…………」


また止まった。

可哀想なくらい、出鼻を挫かれている。


だがここまで来た以上、言わずには帰れないらしい。


「スコットランド王ウィリアムは捕らえられた」


ヘンリーは胸を張った。


「北からの圧力は大きく弱まった。大陸でも反乱側は思うように動けていない。

この流れなら、息子どももルイも長くは持たん」


『どうだ』と言いたげな顔。


私は黙って聞いた。


そして、一口温かい飲み物をすすった。


「……だから?」


「だから?」


ヘンリーの声が裏返る。


「だから最初から、戦争なんかするなって言ったでしょうが」


「な……!」


夫の喉が詰まった。

その様子を見て、私はため息をついた。


「何よ、その『勝ってやったぞ』みたいな顔。

あんたが戦争になったらクソ強いことくらい、私が一番よく知ってるわよ」


二十年どころではない。


長い間あの男がどんなふうに動くのか、

どんな時に一番厄介なのか、

嫌というほど見てきた。


「だから私は、最初からずっと『武力衝突にするな』って言ってたの」


ヘンリーの顔が険しくなる。


「よく言う」


「何がよ」


「お前が息子どもの不満を煽り、ルイのもとへ走らせたのだろうが」


「煽ってない!」


今度は私が声を上げた。


「話し合えって言ったの!」


「同じことだ!」


「どこがよ!」


私はカップを机へ戻した。


「若ヘンリーには、名ばかりで何も任せない。

リチャードにも実際の権限をろくに渡さない。

ジェフリーだって自分の立場がどうなるのか分からない。

そりゃ不満くらい出るでしょうが!」


「だからといって父親に刃向かってよい理由にはならん!」


「だから刃向かわせないために話を聞けって言ったのよ!」


夫婦の声が、石造りの部屋に響く。


外の衛兵たちは、

たぶん聞こえないふりをしている。

私はさらに続けた。


「リチャードを行かせた時だって、戦争するなって念押しした! 

ジェフリーは勝手に行った! 私は知らない!」


「では、お前自身はどうなのだ」


ヘンリーが鼻で笑う。


「身分を隠し、人目を避け、ルイのもとへ向かっていた女が、

どこまで話し合いを主張するつもりだ」


来た。一番面倒なやつ。

私は額を押さえた。


「だから、それは家族会議への出張だって何回言わせるのよ」


「男の格好をして?」


「動きやすい旅装!」


「街道を避けて?」


「あんたの手下が全部見張ってたからでしょうが!」


「行き先はルイのいる方角だった」


「そこに息子が三人揃ってたからよ!」


「…………」


「…………」


私たちはしばらく夫婦で睨み合った。

理解し合えている部分はある。

たぶん、ものすごくある。


なのに結論だけが、”どうしても合わない”。


ヘンリーにとって私が息子たちの側へ向かうこと自体が、政治的な行動だった。

私にとっては、

そこに息子たちがいる以上、自分で行って説教するのは母親として当然だった。


どちらも、自分の理屈の中では一ミリも間違っていない。

だから永遠に噛み合わない。


ヘンリーは長い息を吐いた。


「……お前は、本気でそう思っていたのか」


「本気じゃなきゃ、あんな格好して夜中に馬なんか走らせないわよ」


「それが一番問題なのだ」


「何でよ!」


「自覚がないからだ!」


「あるわよ!」


「ない!」


「ある!」


「ない!」


完全に。


国家をまたぐ大反乱を起こした王と王妃の会話ではなかった。

これではただの夫婦喧嘩である。

私は頭を抱えた。


「……もういい」


「何だ」


「その話、百回やっても平行線だから」


私は焼き菓子を一つ取った。


「それより」


「何だ」


「ウッドストックの女の話」


ヘンリーの顔が固まった。

分かりやすい。


「…………」


「聞いたわよ」


私はにっこり笑った。


「息子の安否は一つも教えてもらえないのに、あんたがどこかの女と

親しくしてるって噂だけは、やたら詳しく入ってきたわ」


「それは」


「私生活?」


ヘンリーが黙る。

私は笑顔のまま続けた。


「王様の私生活は政治なんでしょう?」


「…………」


完全に図星。


以前、自分が言われた言葉を、今度は妻から返されている。

ヘンリーは心底嫌そうな顔をした。


「その話は今、関係ない」


「じゃあ何で顔赤いのよ」


「うるさい」


「はいはい」


私は焼き菓子をかじった。

甘い。

非常においしい。

ヘンリーはしばらく私を睨んでいた。


だが。

さすがにこれ以上何を言っても自分が気分よく帰れないことくらいは

悟ったらしい。


「……とにかく」


マントを直す。


「戦は終わりへ向かっている」


「そう」


「息子どもも、いずれ現実を見る」


「そうなるといいわね」


「お前はここで大人しくしていろ」


私は眉を上げた。


「言われなくても大人しくしてるけど?」


「だから、それが不気味なのだ!」


「まだ言ってんの!?」


ヘンリーは忌々しそうに顔をしかめた。

そして、本当に何をしに来たのか分からないまま踵を返した。


「もう行く」


「どうぞ」


「…………」


「何?」


「いや」


夫は何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わずに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


廊下から遠ざかっていく足音を聞きながら、私は深く息を吐いた。


「……本当に何しに来たのよ」


勝利報告、説教、威圧…

たぶん、全部。


そして、たぶん少しだけ

自分が勝ったことを私に見せたかったのだろう。


私は冷めかけた飲み物をすすった。


そのあと窓の外へ目を向ける。

息子たちはまだ生きている。


少なくとも今のところは。


戦が終わるならそれでいい。

家庭はめちゃくちゃだし私の拘束も終わりそうにない。


それでも…

これ以上、息子たちと夫が本気で殺し合わずに済むのならその方がいい。


「……あいつ、勝ったあとまで息子を殺しに行ったりはしないわよね」


”たぶん、そこまでではない”


そう思いたい。


私は少しだけ黙った。

それから机の上の焼き菓子へ視線を戻す。


「……まあ、今の私にできることないし」


一つ取る。


「食べよ」


外では


夫が勝利へ向けて走り、息子たちが追い詰められ、歴史が大きく動いている…


その間、世界史八点ちゃんは

嵐のように現れて嵐のように去っていった夫を、数分で頭から追い出し


予定通りに、午後の有給消化へ戻ることにしたのである。


※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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