第105話:何もしていない妻を、一ミリも信用できない夫
そろそろ話がまた動くかなぁ
ノルマンディー公領、ルアン。
国王の作戦本部として使われている執務室には、
各地から届いた報告書と地図が所狭しと広げられていた。
机の端には、すっかり冷えた食事が手つかずのまま残されている。
その中央で
ヘンリー二世は、シノンから戻ったばかりの騎士を鋭い目で見据えていた。
「……それで?」
低い声が落ちる。
「アリエノールは、どうしている」
騎士は手元の報告書へちらりと目を落とした。
「は。王妃殿下は……極めて平穏にお過ごしでございます」
「……平穏?」
ヘンリーの眉がわずかに動いた。
あのアリエノールが
自分の意思で外へ出ることもできず、
息子たちとの連絡も制限され、
アキテーヌから引き離されて、
平穏?
「抗議の書状は?」
「ございません」
「私への罵倒は」
「特には」
「教会や諸侯へ訴える文書を書こうとは?」
「そのような様子もございません」
ヘンリーの目が細くなる。
「……では、何をしている」
騎士は少し言いづらそうに口を開いた。
「よくお休みになっております」
「何?」
「朝はかなりゆっくり起きられます。食事は毎回きちんと召し上がり、
午後は写本をご覧になったり、侍女に湯を用意させたり」
ヘンリーは黙っている。
騎士は続けた。
「昨日は、肩が凝ったと仰せになって侍女に揉ませておられました」
「…………」
「夕餉の鴨について、もう少し香ばしく焼くよう料理人へ伝えてほしいとのご要望も」
「…………」
「葡萄酒もおかわりになり、その後は早めにお休みになられたそうでございます」
執務室が静まり返った。
側近たちも、どういう顔をすればいいのか分からない様子で互いを見る。
そして、ヘンリーはゆっくり椅子の背へ体を預けた。
長い沈黙のあと低い声で呟く。
「……何を企んでいる」
「は?」
騎士が思わず聞き返した。
ヘンリーは机の上で指を組んだ。
「何もしていない?」
「はい」
「よく寝て、よく食べて、本を読んでいるだけ?」
「そのようでございます」
「……おかしい」
「陛下?」
ヘンリーは真顔だった。
「おかしすぎる」
側近の一人が、おそるおそる口を挟んだ。
「陛下。もしや王妃殿下は、本当に何も企んでおられないのでは」
ヘンリーの視線が向く。
「何?」
「その……長くお疲れだったでしょうし。今は動ける状況でもございません。
単に休んでおられる可能性も」
「馬鹿を言え」
ヘンリーは即座に切り捨てた。
「あのアリエノールが、だぞ?」
その一言に
二十年以上の夫婦生活が、全部詰まっていた。
気が強い
頑固
自分の領地への執着は誰よりも強い
納得できなければ食い下がる
止めても動く
そして
必要だと思えば、自分で現場へ行く
そんな女が………
息子たちと夫が戦争を始め
アキテーヌの諸侯まで揺れている最中に
ただ寝ている?
「あり得ん」
ヘンリーは断言した。
「何かある」
「しかし……」
「何もしていないように見せているだけだ」
側近たちは黙った。
始まった。
長年連れ添った夫による、妻への過剰評価である。
「警備が緩むのを待っている可能性がある」
ヘンリーは顎へ手をやった。
「あるいは、何もしないことでこちらを油断させ、
外部の者が動くのを待っているか」
「陛下」
「自分から指示を出さずとも、アキテーヌの者たちが勝手に動くことくらい、
あいつなら分かっている」
どんどん深読みが進む。
「むしろ自分が静かにしていることで、『王妃は完全に自由を奪われている』
と、周囲に思わせるつもりかもしれん」
「…………」
騎士たちは何とも言えない顔になった。
実際のアリエノールは、今頃たぶん暖炉の前で
『今日は昼寝しすぎたかしら』
くらいのことしか考えていない。
だが、ヘンリーの中では
妻の完全休業が、いつの間にか高度な心理戦へと昇格していた。
「警備は緩めるな」
ヘンリーは言った。
「出入りする者を確認しろ。書状も今まで通りだ」
「はっ」
「ただし、生活に不自由はさせるな」
「御意」
「食事も衣服も、必要なものは用意しろ」
そこだけは変わらない。
妻としての扱いは粗末にしない。
だが、政治的には一歩も自由にしない。
いつものヘンリーである。
「……しかし」
側近の一人が、小さく呟いた。
「王妃殿下が本当に休んでおられるだけだった場合は……」
ヘンリーは一瞬黙った。
そして。
「その時は、その時だ」
「…………」
絶対に認めない。
その時だった。
執務室の外から、慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が開く。
泥と埃にまみれた伝令が、息を切らしながら中へ入ってきた。
「陛下! 急報にございます!」
空気が変わった。
ほんの一瞬前まで
妻が寝ている理由を深読みしていた男の顔から、夫の表情が消える。
「言え」
声が低くなる。
「ノルマンディー方面で、フランス王側の軍勢に大きな動きがございます。
各地の諸侯も呼応し始めております」
側近たちの表情が引き締まる。
「さらに、イングランド北部でもスコットランド王の軍勢が
国境地帯へ進出したとの報せが」
「……そうか」
ヘンリーは静かに立ち上がった。
先ほどまでの苛立ちはもうない。
灰色の瞳には、別の光が宿っている。
危機を前にした時だけ見せる”冷たく迷いのない目”。
「ようやく来たか」
地図へ歩み寄る。
「息子どもも、ルイも、こちらが怯むと思っているらしいな」
誰も口を挟まない。
「国境の守りを固めろ。補給路を確保しろ。反乱側へ動く諸侯を洗い出せ」
次々と指示が飛ぶ。
「北にも使者を送れ。現地の状況を逐一知らせろ」
「はっ!」
「兵を動かす」
短い言葉だった。
だがその場にいた全員が、一斉に動き始めた。
数刻前まで。
妻が昼寝をしていることにすら疑心暗鬼になっていた夫は、もういない。
そこにいるのは
広大な領土を守るためなら、複数の戦線を同時に処理し
敵が息子であろうと
旧友であろうと
王であろうと
”一切手を緩めない男”だった。
ヘンリーは地図へ視線を落とす。
一瞬だけ、シノンの方角が頭をよぎった。
「……何もしていない、か」
小さく呟く。
どうにもまだ信用できない。
だが、今はそれどころではない。
「行くぞ」
その一言で、執務室全体が戦場へ向かう準備に切り替わった。
こうして。
シノンでは妻が人生最大級の有給休暇を満喫し
ルアンでは夫が、その完全休業を高度な陰謀だと疑いながら
プランタジネット家の大反乱は、いよいよ本格的な戦いへと転がり始めたのである。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




