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『世界史8点の私に、アリエノール・ダキテーヌは荷が重い』 ~未来の夫も息子も、ろくなことをしないらしい~  作者: 雪森蓮


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第104話:詰んだので、監禁部屋で有給全消化することにしました

公認のニート生活

シノン城塞、上階の客間。

朝の光が細い窓から差し込む中、私はベッドの上で毛布にくるまり、

ほとんど芋虫のような姿で転がっていた。


「……ふわぁぁ」


大きなあくびが出る。

正確な時刻なんて分からないけれど、鐘の音から考えれば、もう朝もかなり遅い。


前世のOL時代なら、とっくに仕事を始めていた時間だ。

満員電車に押し込まれ、理不尽なメールに頭を下げ、

ぬるくなったコーヒーを飲みながら「帰りたい」と思っていた頃である。


だが、今の私は。


「王妃殿下。起きておられますか? 朝餉をお持ちいたしました」


控えめなノックのあと、侍女たちが食事を運んできた。


「入っていいわよー」


私は毛布から顔だけ出して返事をした。


髪?

乱れている。


服?

人前へ出る予定もないので、締め付けの少ない室内着のまま。


化粧?

そもそも今、誰に見せるというのか。


侍女たちは少し戸惑った顔をしながらも、卓上へ食事を並べていく。


「本日は焼きたてのパンと、火を通した林檎、山羊の柔らかなチーズを

ご用意しております。蜂蜜もございます」


「わーい。ありがとう」


「温かい香草の飲み物もございます」


「そこ置いといて」


「……殿下、お召し替えは?」


「しない」


即答した。

侍女が瞬きをする。


「本日は、このままお過ごしに?」


「そう。今日は一日、完全休業って決めたから」


侍女たちは顔を見合わせた。


「……さ、左様でございますか」


「左様です」


私は毛布を頭まで引き上げた。


だって。

昨日までさんざん考えた結果、もう分かってしまったのだ。


私は何をやっても、だいたい政治的意味を持たされる。


逃げれば反乱

動けば陰謀

手紙を書けば扇動

息子の味方をすれば黒幕


なら。


「もう何もしないのが一番安全じゃない?」


毛布の中で、私は真顔になった。


脱出は無理。

街道も城も、あのジャイアンの支配下。

弁明しても、客観的事実があまりにも反乱側すぎる。

息子たちへの説教状も、どうせ途中で止められている。

外に出ようとすれば「また逃げた」と言われ。

何か指示を出せば「やはり黒幕だった」と言われる。


だったら。

今の私が取れる最適解は、じっとしていること。


つまり。


『休む』


「四十年以上も働いてきたんだから、もういいでしょうが……」


私はベッドの中でぼそりと呟いた。


アキテーヌの女公として

フランス王妃として

イングランド王妃として


領地を見て

子どもを産んで

育てて

政治に巻き込まれて

十字軍にまで行って

夫の暴走に付き合って

息子たちの反抗期まで面倒を見て


そこまでやってきた女に

長期休暇を取る権利がないと、誰が言えるのか。


「よし」


私はむくりと起き上がった。


考え方を変えよう。

これは監禁ではない。

会社都合による、食事付き、暖房付き、全額会社負担の強制有給消化だ。


そう思えばいい。


そう定義し直した瞬間、この冷たい石の城は、

少なくとも部屋の中だけなら

非常に快適な引きこもり空間へと変わった。


まず読む。

侍女が、修道院などから借り受けたらしい本を何冊か持ってきた。


祈祷書、聖人伝、騎士物語

美しく彩色された挿絵を眺めながら、私はページをめくる。


「……この騎士、やってることだいぶ問題社員よね」


誰も返事をしない。

でもいい。

読み飽きたら寝る。

昼食が来たら起きる。

食べたらまた横になる。

午後には湯を用意してもらい、足を温める。

香りのついた湯に足を浸しながら、侍女に肩を揉んでもらう。


「ああー……そこそこ」


「殿下、ずいぶん凝っておられますね」


「四十年分くらい溜まってるからね」


侍女が困ったように笑った。


そのあとはおやつ。

干した果実。

蜂蜜を使った焼き菓子。

少し薄めた葡萄酒。


「……うま」


最高である。


午前中は二度寝。

昼は温かい料理。

午後は本を読みながら、うとうと。


夕方は窓辺で外を眺め。

夜になれば、暖炉の前でまたぼんやりする。


そして、眠くなったら寝る。


「……なにこれ」


数日後。

私は水盆に映る自分の顔を見ながら、思わず呟いた。


「……顔色、良くなってない?」


気のせいではない。


よく寝ている。

ちゃんと食べている。

寒くない。

歩き回らない。

夫と喧嘩しない。

息子たちの奇行を直接見ない。

外の政治案件を何一つ処理しなくていい。


「……私、今までどれだけ疲れてたのよ」


笑うしかない。


外では夫と息子たちが戦っている。

諸侯が動いている。

各地で兵が集まり。

私の名前まで勝手に使われているらしい。

それなのに当の私は人生で一番規則正しい生活をしている。


皮肉にもほどがある。


その日の午後

部屋の警護を担当する騎士が、様子を確認しに来た。


「失礼いたします、王妃殿下。何かご不自由はございませんでしょうか」


私は寝台の端に座り、干し無花果を食べながら片手を振った。


「全然」


「は」


「むしろ快適」


「……はあ」


騎士の顔に、明らかな困惑が浮かんだ。


彼らが想像していたのは、


泣き暮らす王妃

夫を呪う王妃

あるいは、

隙あらば脱出を企てる、油断ならないアキテーヌ女公。


たぶん、そのどれかだったのだろう。


実際にいたのは


よく食べ

よく寝て

部屋から一歩も出ようとしない女


「夜、少し冷えるから、薪だけ多めにお願い」


「承知いたしました」


騎士は頷いた。

それでも、何か言いたそうにしている。


「……何?」


「いえ。その……陛下へ抗議の書状などは、お書きにならないのでしょうか」


私は干し無花果を噛みながら、騎士を見た。


「書いてどうするの?」


「それは……」


「どうせ途中で読まれるんでしょ?」


騎士の目が泳いだ。


「まあ、その……」


「だったら書かない」


私はあっさり言った。


「もう業務連絡は全部ヘンリーに任せることにしたの。私は今、長期休暇中だから」


「……長期休暇」


「そう」


私は頷いた。


「何か起きても、しばらくノータッチでよろしく」


騎士は完全に毒気を抜かれたような顔をしていた。


「あ。そうだ」


「はい?」


「今日の夕食、鴨って聞いたんだけど」


「はい」


「じゃあ、ちゃんと香ばしく焼くように料理人に伝えておいて」


「……かしこまりました」


騎士は深く一礼した。

そして、何とも言えない顔のまま部屋を出ていった。


扉が閉まる。

外から鍵の音がする。


ガチャリ。


「…………」


私は一瞬だけ、その音を聞いた。


自由ではない。

それは変わらない。

ここから勝手には出られない。

息子たちのところへ行くこともできない。

アキテーヌへ帰ることもできない。


でも今の私にできることが何もないのなら。

せめて休めるうちは、休んでもいいだろう。


「……今日くらいはね」


私は葡萄酒の杯を持ち上げた。

暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。


「四十年分の有給、今まとめて消化してやる」


そう言って、私は寝台へ深く沈み込んだ。


外の世界では、

夫と息子たちがぶつかり合い、諸侯が動き

歴史が、また大きく揺れ始めている。


その真ん中で。


世界史八点ちゃんだけが

しばしの間、”何もしない”という、人生で最も贅沢な選択をしていたのである。

※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。


人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。


できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。

なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?

「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。


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